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第1回「COVID-19による日本のポピュラー音楽文化への影響」宮入恭平

文:宮入恭平

※この記事はTell the Truthにも同時掲載しています。

Tell the Truthとの共同企画による「アフターマスーCOVID-19による東アジアのポピュラー音楽文化への影響」(”Aftermath: Impact of COVID-19 on Music Culture in East Asia”)の連載記事です。

アジアの片隅で〜「まえがき」に代えて

ウイルスという見えない脅威は、世界を一変させることになった。2019年12月に中国で原因不明のウイルス性肺炎の感染者が確認され、2020年1月には未知なるウイルスとして世界規模で報道されるようになった。その正体は、のちにWHO(世界保健機関=World Health Organization)によってCOVID-19と名づけられた新型コロナウイルスだった。

 

2021年1月15日、国内で初めてCOVID-19の感染者が確認されてから1年が経過した。当時の報道を振り返れば、厚生労働省は「現時点で家族間など限定的な人から人への感染の可能性は否定できないが、持続的な人への感染の明らかな証拠はない[1]」という見解を示していた。もっとも、あらゆるウイルスに例外はなく、COVID-19もまたヒトを宿主として増殖することに変わりなかった。いまとなっては自明の認識も、ほんの1年前には共有されていなかったというわけだ。

 

ポピュラー音楽文化、なかでもライブカルチャーは、対面的なコミュニケーションによって成立するものだ。COVID-19は、そんなポピュラー音楽文化に深刻な影響をもたらしている。そして、それは日本に限ったことではない。したがって、視座を広げた議論が求められることになるはずだ。そこで、COVID-19による東アジアのポピュラー音楽文化への影響について見つめ直す試みをする。まずは、日本のポピュラー音楽文化からはじめることにしよう。

 

ライブ・エンタテインメント市場の損失

国内初の感染者が確認された時点で、多くの人びとにとってCOVID-19は「対岸の火事」にすぎなかった。しかし、国内でも感染者が相次いで確認されるようになり、2020年1月30日には政府が新型コロナウイルス感染症対策本部を設置することになった[2]。2月になると、日本国内で経路不明の感染例が確認されはじめ、さらには寄港したクルーズ船での集団感染が大きな話題になった。こうしたなか、前日に厚生労働省が発表した基本方針[3]にもとづき、安倍晋三首相(当時)は2月26日の記者会見で、「政府といたしましては、この1、2週間が感染拡大防止に極めて重要であることを踏まえ、多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがあることを勘案し、今後2週間は、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請することといたします[4]」という、イベント自粛をうながす呼びかけをおこなった[5]。さらに、2月29日に首相官邸で記者会見を開いた安倍首相(当時)は、冒頭で「新型コロナウイルスが世界全体に広がりつつあります。中国での感染の広がりに続き、韓国やイタリアなどでも感染者が急増しています。我が国では、そこまでの拡大傾向にはないものの、連日、感染者が確認される状況です[6]」という2月末時点での状況説明をしたうえで、「今からの2週間程度、国内の感染拡大を防止するため、あらゆる手を尽くすべきである[7]」という喫緊の課題に言及した。そのうえで、改めて「集団による感染をいかに防ぐかが極めて重要です。大規模感染のリスクを回避するため、多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベントについては、中止、延期又は規模縮小などの対応を要請いたします[8]」という2月26日の記者会見でのイベント自粛の呼びかけを繰り返した。もっとも、「感染拡大を防止するため、あらゆる手を尽くす」には、わずか2週間という期間はあまりにも短いものだった。

 

当然のことながら、中止や延期、あるいは規模縮小などの対応を求められたイベントには、音楽産業の重要な収入源になっているライブ・エンタテインメントも含まれている。いまや、CDをはじめとする音楽ソフト市場が低迷を続ける音楽産業にとって、イベントなどのライブ・エンタテインメント市場の躍進は欠かせないものになっている[9]。ぴあ総研が2020年6月に実施した「ライブ・エンタテインメント市場規模」に関する調査によると、2019年のライブ・エンタテインメント市場の音楽市場規模は、前年比9.3パーセント増の4,237億円と推計されている。2010年の1,600億円と比較すると、実に265パーセント増にまで膨れあがり、統計を開始した2000年以降で最大規模となった。もっとも、COVID-19による音楽産業への影響は深刻だ。2020年の音楽市場規模は、前年比70パーセント減の1,241億円という大幅な減収が見込まれている。ちなみに、音楽市場規模とステージ市場規模を合わせた全体の市場規模は、2010年が3,159億円、2019年が6,295億円、2020年は1,836億円となっている[10]。さらに、10月の調査によると、音楽市場規模は前年比83パーセント減の714億円(全体の市場規模は1,306億円)に下降修正されている[11]

 

ライブ・エンタテインメント市場の損失は、大規模なイベントに限ったことではなく、中規模や小規模のイベントにも当てはまる。もちろん、市場規模からすれば、大手音楽産業が被った損失は甚大だ。その一方で、比較的小規模の音楽産業には、ライブ・エンタテインメント市場として顕在化した大手音楽産業とは単純に比較できない要素があることにも留意する必要がある。次章では、音楽産業のなかでも比較的小規模に位置づけられるライブハウスに注目しながら、COVID-19のパンデミックによる影響について議論する。

 

ライブハウス文化への影響

はからずも、新型コロナウイルス禍によって注目を浴びることになったのがライブハウスだ。そもそも、ライブハウスが日本の社会で広く認知されるようになったのは1980年代後半のことだ。すでに四半世紀以上の歳月が経過していることから、実際にはライブハウスそのものを訪れたことがなくても、ライブハウスという言葉を耳にしたことのある人はかなりの数にのぼるだろう[12]。とはいえ、新型コロナウイルス禍におけるライブハウスへの注目度の高さは、ライブハウスが社会的に認知されるようになってから初めてのことと言っても過言ではない。もっとも、こうしたライブハウスへの注目度の高さには、残念ながら否定的な意味合いが多分に含まれている。そんなライブハウスに注目が集まる発端となった出来事が起こったのは、日本国内での感染拡大が話題になりはじめた2020年2月までさかのぼる。安倍晋三首相(当時)がイベント自粛の記者会見を開いたのと同日の2月29日、大阪府の吉村洋文知事は記者会見で、2月15日に大阪市内のライブハウスを訪れていた3人がCOVID-19に感染していたことを明らかにした[13]。この会見で吉村府知事は、感染者集団であるクラスターの拡大を防ぐために、当該ライブハウスの了承を得たうえで、実名での公表に踏み切っている[14]

 

大阪市内のライブハウスで発生したクラスターの連鎖は、行政によって情報開示がおこなわれた[15]。それと同時に、テレビや新聞をはじめとするメディアでも報道されている。もちろん、感染拡大を防ぐための情報発信は必要なことだが、有事におけるメディアの情報が必ずしも公正なものとは限らない[16]。ライブハウスのクラスター発生に関する報道では、ライブハウスが置かれている環境が否定的に誇張されたのも事実だ[17]。確かに、多くのライブハウスは、のちに「三密」と名づけられた「密閉」、「密集」、「密接」というすべての条件が当てはまる可能性が高くなる。そして、残念ながら、ライブハウスからクラスターが発生してしまったのは紛れもない事実だ。もちろん、情報開示という点を考慮すれば、感染場所がライブハウスであるという報道は妥当なものかもしれない。その一方で、メディアによる報道によって、ライブハウスという言葉が一人歩きしてしまった感は否めない。さらに、ライブハウスに対する否定的な言説は、行政によっても拡散されることになった。2020年3月30日には東京都の小池百合子知事が、感染拡大防止策として求めていた夜間の外出自粛の要請を強化し、業種を特化しての注意をうながした。そこで名指しされたのが、ほかでもないライブハウスだったというわけだ[18]。もちろん、ライブハウスと感染がまったく無関係だったわけではない。しかし、自覚的にせよ無自覚的にせよ、メディアが、そして行政も、あからさまにライブハウスを名指ししたことによって、「ライブハウスは感染(しやすい)場所である」という否定的な認識を人びとに与えてしまった。言い換えれば、ライブハウスのステレオタイプを人びとに植えつけてしまったということだ。その結果として、ライブハウスに対する人びとの認識は否定的なものとなって、その後のライブハウスの運営に大きな困難をもたらすことになった[19]

 

ライブハウスが窮地に立たされるようになった直接的な要因は、感染拡大防止のために余儀なくされた営業の自粛によるところが大きい。もっとも、それを「自己責任」と呼ぶには、あまりにも新自由主義(ネオリベラリズム)的な発想だろう。そもそも、ライブハウスが自粛の判断を迫られたのは、厚生労働省からの基本方針が示された2020年2月25日だった。それにより、感染拡大防止のための自粛を意識するようになったライブハウスも少なくない。その翌日の2月26日には政府からイベント自粛をうながす声明が発表され、さらに、東京都では3月25日に、小池百合子都知事がライブハウスへの自粛をうながす発言をしている[20]。そして、4月7日の政府による緊急事態宣言[21]や、4月10日の東京都による緊急事態措置[22]のもと、ライブハウスは感染拡大防止のための自粛を迫られることになったのだ。その後、「東京アラート」や「第2波」の際にも自粛を余儀なくされてきたものの、残念ながら、十分な補償がともなっていないのが実情だ[23]。さらに、「第3波」にともない2021年1月7日に発出された2回目の緊急事態宣言[24]によって、またしてもライブハウスは自粛を要請されることになった。自粛の判断を迫られてからまもなく1年が過ぎようとしているいまなお、ライブハウスを取り巻く状況は変わらないどころか悪くなる一方だ。

 

もちろん、こうした「補償なき自粛」によって苦境に立たされているのは、ライブハウスに限ったことではない。しかし、当初からメディアや行政によって付与されたステレオタイプによってスケープゴートと化したライブハウスは、スティグマという著しく失墜した社会的評価を抱えるようになったのは確かなことだ。その一方で、ライブハウスが広く社会に認知されるようになって久しいものの、ライブハウスに対する認識が必ずしも人びとにあまねく浸透していたわけではないことも明らかだ。そもそも、ライブハウスという言葉はあくまでも総称に過ぎず、規模から運営方法にいたるまで多種多様なスタイルが混在しているのだ。それにもかかわらず、ライブハウスなる一括りにされた言葉に回収されながら、メディアや行政に名指しされたことによって、ライブハウスはすっかりと悪名高き存在になってしまったというわけだ。そんなライブハウスが直面したCOVID-19による影響は、皮肉にも、これまでライブハウス文化が抱えてきた問題点を露呈することにもなった。そこで次章からは、顕在化した課題について、政治、経済、文化における理論的な枠組みから考えてみる。そこから、ポストコロナ時代のライブハウスの可能性と限界が明らかになるだろう。

 

ユートピアとディストピア

新型コロナウイルス禍による影響を受けた音楽産業全体を俯瞰すると、ポストコロナ時代を見据えた「ニューノーマル(新たな常態)」を模索している段階にある。たとえば、「密」の回避が求められるライブ・エンタテインメントにおいて、インターネットによるライブ配信は有効だろう。もっとも、この試みには潤沢な予算が必要になる[25]。一方的な「補償なき自粛」を余儀なくされたライブハウスは、わずかばかりの休業協力金、煩雑な手続きが必須となる公的助成、さらにはクラウドファンディングや支援プロジェクトなどで急場を凌いできたものの、もはや限界に達しつつある。そうしたなかで、ポストコロナ時代を模索しながら、ライブ配信を導入するライブハウスも現れてはいる。ライブ配信には行政の予算も充てられるようだが、それによってプレコロナ時代と同等の採算がとれるかどうかには不安が残る。なにより、ライブ配信が従来のライブハウス文化のあり方を補填できるかどうかについては、慎重な議論が必要になるのは確かなことだ[26]

 

ライブハウスの「ニューノーマル」を模索することも必要だが、その一方で、プレコロナ時代における従来のライブハウスのあり方を継続させようとする動きも活発になっている。そのなかでも顕著なものとして、助成金申請の働きかけがあげられる。それを牽引しているのは、2020年3月26日にライブハウス経営者をはじめとする音楽関係者の有志が設立した団体「#SaveOurSpace[27]」だ。当初はライブハウスやクラブへの助成金を求める活動からはじまり、さまざまな業種の垣根を超えて継続的な助成を国に求める「#SaveOurLife[28]」へと展開することになった。さらに、「SAVE the CINEMA[29]」や「演劇緊急支援プロジェクト[30]」と連携しながら、文化活動の安定した継続を目的とした「文化芸術復興基金」の創設を求めた「#WeNeedCulture[31]」を立ちあげることになった。「文化」や「芸術」の名のもとで、ライブハウスはもちろんのこと、ミニシアターや小劇場にも国や行政の支援が必要になることを政治に訴えかけたのだ。こうした助成金申請の働きかけとは別の方法で、ライブハウスの「ニューノーマル」を模索する動きも見られる。それは、業界関係者と感染症の専門家を交えての感染拡大防止のためのガイドライン策定だ[32]。そこには業界団体として、「一般社団法人ライブハウスコミッション[33]」、「NPO法人日本ライブハウス協会[34]」、「日本音楽会場協会[35]」、「日本ライブレストラン協会[36]」が参画している。もちろん、これら4団体の尽力がガイドライン策定に貢献したことは確かなことだ。その一方で、これらの団体はライブハウス業界全体を取りまとめるほどに組織化されたものではなく、策定されたガイドラインは必ずしもライブハウスの総意が反映されたものではないという点には留意する必要がある。そもそも、これまで全国のライブハウスを一律で取りまとめるような、一枚岩の組織が存在することはなかった。その大きな要因は、ライブハウスという言葉に回収されて不可視化されてしまう、ライブハウスそのものの多種多様な運営形態にある。今回の新型コロナウイルス禍という危機的な状況は、これまで機能不全に陥っていた業界団体のあり方を見直す好機になったのは間違いないはずだ。さらに、出演アーティスト、照明や音響のスタッフなど、ライブハウス文化を取り巻くエコシステム(生態系)にも当てはまる。奇しくも新型コロナウイルス禍は、ライブハウス文化が抱えていた課題を露呈することになったというわけだ。

 

危機的な状況に直面したときに人は、否でも応でもコミュニティやアイデンティティを意識することになる。アメリカの活動家であるレベッカ・ソルニット[37]とカナダのジャーナリストであるナオミ・クライン[38]は、それぞれ対照的な立ち位置から、災害など有事の際に顕在化するコミュニティとアイデンティティの関係を描き出している。ソルニットは、為政者の混乱によって社会のパニックが引き起こされるものの、人びとは自発的に利他的な互助行為をおこなうという災害時のユートピアを描いている。それに対して、災害などに直面した人びとが茫然自失から覚める前に、為政者は大胆な市場原理主義にもとづく改革をおこなっていると主張するクラインが描くのはディストピアだ。ふたりの見解は対照的なものだが、政府に対する評価の低さという共通点を窺い知ることもできる。ある意味で、現在の政治経済の潮流となっている新自由主義(ネオリベラリズム)の問い直しが求められているということかもしれない。そこには、直接的にせよ間接的にせよ、人びとの政治への関与が含まれる。ソルニットとクラインの議論は、欧米に限らず日本にも当てはまることだ。新型コロナウイルス禍という危機的な状況によって引き起こされた社会的な不安は、人びとに政治への関与を自覚させはじめることになった。程度の差こそあれ、日常のなかで政治を意識せざるを得ない社会になったというわけだ。そのような意識は、ライブハウスにも求められるようになっているのだ。

 

新型コロナウイルス禍という危機的な状況のなかで、助成金申請の試みはナオミ・クラインが主張するディストピアに当てはまるだろう。新型コロナウイルス禍という有事における「補償なき自粛」は、新自由主義(ネオリベラリズム)とも親和性が高い「自己責任論」のもとで成立するものだ。そこで必要になるのは、公的な支援というわけだ。もっとも、プレコロナ時代には、ライブハウスが公的支援に対する政治への働きかけはほとんどおこなわれることがなかった。そもそも、ライブハウスと政治の近接性が低かったのは紛れもない事実だ。ところが、新型コロナウイルス禍という危機的な状況下において、ライブハウスは公的支援の必要性を目の当たりにしたのだ。結果として、ライブハウスは助成金申請という政治への働きかけを実践することになったというわけだ。その一方で、業界団体によるガイドライン策定の試みは、レベッカ・ソルニットが主張するユートピアに当てはまる。ウイルス禍におけるガイドライン策定は、ライブハウスの協調をうながす自発的な互助行為に結びつくものだ。プレコロナ時代には健全に機能していなかったライブハウスの業界団体だが、ウイルス禍を契機としてみずからの存在意義を見直すことになったのは明らかだ。とくに、ガイドライン策定に参画している4団体のなかでも、「日本音楽会場協会」はライブハウス関係者への呼びかけをおこない、多種多様な運営形態の最大公約数をとりまとめるための橋渡し的な役割を担っている。ライブハウスの協調へとつながる自発的な試みは、危機的な状況のなかで顕在化したというわけだ。そして、助成金申請にせよガイドライン策定にせよ、新型コロナウイルス禍において、アーティストやスタッフも含めたライブハウス文化が政治への関与を自覚するようになったのは確かなことだ。その是非については安易に言及できるものではないものの、危機的な状況におけるユートピアとディストピアが、ライブハウス文化の政治への近接性を高めることになったのは紛れもない事実なのだ。

 

文化か、それとも文化産業か

新型コロナウイルス禍の影響を受けたライブハウスは、政治への関与を迫られることになった。ライブハウス――あるいは、広義でのライブハウス文化――を存続させるために、みずからが政治と向き合うための実践を余儀なくされることになったのだ。好むと好まざるとにかかわらず、ライブハウスは政治への関与が必要不可欠になったというわけだ。「補償なき自粛」に疲弊したライブハウスを救済するための助成金申請では、「文化」や「芸術」への支援を政治に求める動きが積極的におこなわれるようになった。そこでは、ライブハウスをはじめ、ミニシアターや小劇場といった、いわゆる大文字の「文化」や「芸術」からこぼれ落ちてしまう(と考えられる)分野にも、国や行政の公的支援が必要になると訴えかけている。もっとも、ここで強調される「文化」や「芸術」の意味については、さらなる議論が必要になるだろう。もちろん、これまでライブハウスから数多の「文化」や「芸術」が生まれたことは間違いない。それにもかかわらず、その文脈に大文字の「文化」や「芸術」を当てはめることには若干の違和感を覚えてしまう。ライブハウスの存続を求める声は、あくまでも、(比較的小規模の)音楽産業を守るということに等しい。言い換えれば、そこで守られるべきものは、必ずしも大文字の「文化」や「芸術」とは限らないというわけだ。実際のところ、ライブハウスは資本主義経済における文化産業の枠組みのなかで機能している。そして、助成金申請とは別の方法で政治との関与を実践している、多種多様なライブハウスの最大公約数の意見を盛り込むためのガイドライン策定もまた、文化産業としてのライブハウスを守るという試みなのだ。

 

助成金申請やガイドライン策定といった政治への関与は、喫緊の課題を乗り切るために、さらにはポストコロナ時代を見据えたときに、ライブハウスがなすべき必要最低限の実践と呼べるかもしれない。その一方で、当然のことながら、ライブハウスには政治に関与しないという選択肢も用意されている。そもそも、体制に意義を申し立てる対抗文化(カウンターカルチャー)との親和性が高い(と考えられている)ライブハウスにとって、政治に働きかけるという試みは、ある意味で不本意なものかもしれない。そして、政治には関与しないという選択肢もある。実際のところ、助成金やガイドラインとは関係なく、独自の方法で運営の継続を試みているライブハウスも存在しているのだ。今回の新型コロナウイルス禍では、個々のライブハウスが被った膨大な損失という部分には同情するものの、ライブハウス文化全体を俯瞰すれば、これまで不可視化されていた負の側面が露呈することになってしまったと言わざるを得ない。少なくとも、過去10年を振り返っても、ライブハウスはある意味で危機的な状況に直面してきた[39]。それにもかかわらず、幸か不幸か、直接的な損失がなかったことから、ライブハウスはみずからの危機管理体制を見直すことのないまま、ここまで存続してこられたというわけだ。

 

2010年代前半にクラブカルチャーを巻き込んだ風俗営業法の改正をめぐる問題では、好むと好まざるとにかかわらず、多くのクラブが政治への関与を余儀なくされた[40]。もっとも、そうした事態を「対岸の火事」としてとらえていたライブハウスは少なくなかった。そもそも、当時はライブハウスの業界団体が健全に機能しておらず、何かしらの対策が講じられることはなかった[41]。ましてや、ライブハウス関係者の有志が政治に対して働きかけをおこなうという実践も目にすることはなかった。ところが、今回のウイルス禍では、さすがにライブハウスも政治への関与を無視できなくなったというわけだ。そして、ポストコロナの時代では、政治への関与の是非ではなく、その姿勢が問われることは必至だろう。もはや、ライブハウスの政治への関与が必須なことは明らかだ。たとえば、クラブカルチャーの風営法問題では、政治への関与が法律の改正を実現させることになった。その一方で、従来のクラブカルチャーそのものの変質をうながすことにもなってしまった[42]。つまり、何のために政治への働きかけが必要だったのかということだ。クラブカルチャーの風営法問題では、守ろうとしたものが「文化としてのクラブ」だったのか、それとも「文化産業としてのクラブ」だったのか、という問いが見え隠れしている。それは、ライブハウスにも当てはまることだ。つまり、いま守ろうとしているライブハウスは、「文化としてのライブハウス」なのか、それとも「文化産業としてのライブハウス」なのかということだ。もちろん、その姿勢についての是非を問うのは不毛なことかもしれない。しかし、それを見誤ってしまうと、ポストコロナ時代のライブハウス文化のあり方そのものを左右しかねない事態になるのは必至だろう。

 

文化は人を窒息させるのか?

作家の村上春樹は、「もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ[43]」という、芸術にまつわる一節を綴っている。ここからは、レジャー・スタディーズの文脈における、古代ギリシャのレジャー概念の本質を垣間見ることができる。古代ギリシャ語のムーシケーは詩や音楽、舞踊を含めた芸術全般の意味を持ち、理想国家を実現するために教養が重視されていた。もっとも、こうした教育を受けることができたのは、労働を強いられていた奴隷ではなく、余剰の時間を確保できる自由市民だった。詩作に耽ったり、数学に取り組んだりといった、いわゆる文芸が育まれたのは、まさに余剰の時間があったからというわけだ。古代ギリシャで問われたのは、余剰の時間の過ごし方だった。余暇は人びとが教養ある問題にたずさわり、人生の目的を追求することを可能にしたのだ。何かの目的のために余剰の時間を過ごすのではなく、余剰の時間を過ごすこと自体が目的だった。そして、詩や音楽、舞踏を含んだ文芸は、その必要性や有用性ではなく、余剰の時間を充実して過ごすためのものとしてとらえられたのだ。つまり、教養としての文芸は、余暇を充実させるために用いられたというわけだ。もちろん、古代ギリシャにおける余暇の重要性を理解するうえで、その社会背景を無視することはできない。つまり、現代社会では自明として語られる「労働/余暇」という発想を白紙に戻したうえで、そもそも古代ギリシャの自由市民は労働から解放されており、そのために教養ある問題にたずさわりながら人生の目的を追求することが可能だったという事実を考慮する必要があるのだ。

 

古代ギリシャにおける芸術の価値は、必ずしも現代におけるものと等価にはならないことに留意する必要があるだろう。そのうえで、芸術をどのようにとらえたらよいのだろうか。そもそも、芸術とは何か?という問いかけに、どのような答えが望ましいのだろう。フランスの画家で著述家のジャン・デュビュッフェは、アール・ブリュット(art brut)の「発明者」として知られている。アール・ブリュットとは、既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈によってつくられた芸術作品の意味で、英語ではアウトサイダー・アート(outsider art)と呼ばれるものだ。加工されていない「生(き)の芸術」、伝統や流行、教育などに左右されることなく、みずからの内側から湧きあがる衝動のままに表現した芸術というわけだ。ちなみに、日本では福祉の文脈から、障害者による芸術という意味合いが浸透しているという事実は否めない。デュビュッフェによる「芸術はわれわれが用意した寝床に身を横たえに来たりはしない。芸術は、その名を口にしたとたん逃げ去ってしまうもので、匿名であることを好む。芸術の最良の瞬間は、その名を忘れたときである」という言葉からは、「生(き)の芸術」であるアール・ブリュットの本質が見え隠れする。そこから浮き彫りになるのは、文化に回収される芸術という文脈だ。そして、そんな芸術をデュビュッフェは「文化的芸術」と呼んでいる。たとえば、「芸術作品と商売とが結びつき、商人は利益のために根を釣り上げようとし、ついでこの値段が威光を生み出すことになる。商業と文化はこのうえなく緊密に結びついている。商業と文化は互いに助け合い強化しあう。(中略)商売はこのことをよく知っているがゆえに文化の神話を支持し、その権威を補強するのである[44]」と述べている。そして、「今日、文化という概念は、本質的に宣伝広告的であり、宣伝広告のメカニズムによく合致した度し難く単純な作品を指し示すものとなっている。要するに、作品の価値はしだいに宣伝広告の価値に移行しているのである[45]」と指摘している。ここからは、文化という言葉にまとわりつく欺瞞が垣間見える。そして、「文化がなくなったら芸術もなくなると言う人がいる。これは大きな誤りである。たしかに、文化がなくなったら芸術は名前を持たなくなるだろう。しかしそれは芸術という概念がなくなるのであって、芸術がなくなるわけではないのだ。芸術は名前を失って、健全な命を取り戻すのである[46]」と語るその言葉からは、欺瞞としての文化から解き放たれた真の芸術のあり方を描くことができるのだ。

 

2020年10月14日、「演劇緊急支援プロジェクト」(舞台)、「#SAVE the CINEMA」(ミニシアター)と「#SaveOurSpace」(ライブハウス)が文化芸術への支援を求める「#WeNeedCulture」が、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて文化庁が募集した「文化芸術活動の継続支援事業」の改善を求めて要望書を提出した。関係者からは、例年の文化予算が年間1000億円前後のなか、文化庁が補正予算で560億円の継続支援用の補助金を確保して「文化芸術活動の継続支援事業」を立ち上げたことに期待したものの、現場の実情に即しておらず、支援が必要なところに届いていないとの声があがっている。「#WeNeedCulture」は発足当初から、政治への働きかけをおこなっている。もちろん、新型コロナウイルス禍における舞台やミニシアター、そしてライブハウスが置かれている状況は看過しがたいのは言うまでもない。そのうえで、みずからの活動を継続させるための実践は当然のことだ。その一方で、どうしても違和感を覚えてしまうのが、ことさらに強調される「文化芸術」という言葉だ。つまり、助成の対象になっているのは、いわゆる大文字の「文化芸術」に属する分野で、そこから除外されている舞台、ミニシアターやライブハウスも含むべきだという主張が透けて見える。そして、「文化芸術」の名のもとに庇護を受けるのは効果的だろう。しかし、果たして、舞台、ミニシアターやライブハウスは大文字の「文化芸術」としてふさわしいのだろうか。あくまでも個人的な意見として、舞台、ミニシアターやライブハウスはアール・ブリュットであるべきだと考える。欺瞞としての文化から一定の距離を保つことによって、その存在意義が発揮されると確信している。ジャン・デュビュッフェの『文化は人を窒息させる』を訳した仏文学者の杉村昌昭は、「訳者あとがき」のなかで、新自由主義のもとで「個人主義」の意味が歪曲されてきた背景を「文化」に当てはめる。そして、「文化という言葉の場合は歪曲されたというよりも、新自由主義の下でかつて以上にその支配的強度が高まったと言う方が妥当だろう。いまや、何でもかんでも『文化』という言葉を冠すれば社会的に合意が得られ、正当化されるような風潮が起きている。それは『スポーツも文化だ』というスローガンで推進されているオリンピックの開催に向けた動きに如実に現れている[47]」と綴っている。さらに、「『パラリンピック』にかこつけて『アール・ブリュット』を持ち上げようという理不尽な珍現象まで生み出している。これこそまさに、アール・ブリュットを文化的芸術の中に回収しようとするくわだてであり、デュビュッフェが本書で厳しく批判していることにほかならない[48]」と、辛辣な言葉を投げかけている。

 

「経済」と「生活」をめぐって

2020年9月3日(日本時間)、アメリカの文化人類学者でアクティビストでもあるデヴィッド・グレーバーの急逝が伝えられた。享年59歳、そのわずか2ヶ月前には、世界的に話題となった“Bullshit Jobs: A Theory”の訳書『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』が出版になった矢先の訃報だった。グレーバーは「ブルシット・ジョブ」を「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうでないと取り繕わなければならないように感じている[49]」と定義づけている。1930年に経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、テクノロジーの進歩によって、20世紀末までに週15時間労働が可能になるだろうと予測していた。ところが、資本主義社会のなかで成立した新しい職種は、人びとを労働から解放させることはなかった。むしろ、無駄で無意味な「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」が増えてしまった。他人から尊敬や敬意を払われながら、高収入を得ているにもかかわらず、みずからの労働を無益なものだと自覚している――富裕国のおよそ40%の労働者は「ブルシット・ジョブ」に含まれているのだ[50]。その一方で、社会的な貢献をしながらも、労働条件が劣悪な「シット・ジョッブ」も存在している。そこには、「骨の折れる仕事」や「他人から軽んじられる仕事」、あるいは「実入りの少ない仕事」などが当てはまる。もっとも、こうした仕事に従事する人たちには、その仕事が利他的な行為だと自覚することによってもたらされる自尊心がある[51]。新型コロナウイルス禍では、こうした「シット・ジョブ」が「エッセンシャル・ワーカー」として注目を集めるようになった。

 

デヴィッド・グレーバーは生前、フランスの『リベラシオン』紙(2020年5月28日)に論考を寄せている[52]。そこでは、ポストコロナの世界における「経済」のあり方が問われている[53]

 

 明らかに、コロナ下の社会生活のなかには、まっとうなひとなら誰もが再び動き出してほしいと願うはずのものがたくさんある。カフェ、ボウリング場、大学といったものだ。けれどこうしたものは、ほとんどのひとが「生活」の問題とみなすものであって、「経済」の問題ではない。
 生活=生きること=命(ライフ)。これが政治家たちの優先課題ではないことはまず間違いない。けれども、政治家たちは人びとに対し、経済のために命をリスクにさらすよう求めているのだから、経済という言葉で彼らが何を意味しているのか、理解しておくことが重要だろう。

 

この「経済」と「生活」をめぐる議論については、「『カフェ、ボウリング場、大学』の再開を『経済』の問題ではなく『生活』の問題として論じ、そのうえ『生活』の問題をただちに『命』の問題と結びつけるグレーバーの言葉づかいは、日本語世界のなかでは違和感をもって受け止められるかもしれない[54]」という、訳者である批評家の片岡大右による注釈が添えられている。「大学はさておき、カフェを含む飲食店、ボウリング場やさらにはパチンコ店のような運動・遊技施設の休業は、わたしたちの列島ではまさしく『経済』の問題として議論され、しかも『命』を守るために犠牲を求められるこの『経済』こそが、『生活』または『暮らし』を支えるものとしてイメージされている[55]」というわけだ。そして、「言うまでもなくここには、『補償なき自粛』の政策(あるいは無策)が経済なき生活維持を困難なものにしている日本の事情が深く関わっている[56]」のだ。そのうえで、グレーバーは「動物的な生命維持の次元と人間的な生活の次元をわかちがたい連関[57]」と位置づけていることを指摘する。

 

グレーバーの「経済」と「生活」をめぐる問いかけは、すでに100年も前に日本からも投げかけられている事実に気がつく。大正から昭和にかけて、日本の民衆娯楽を研究した権田保之助は、災害時における娯楽の有用性(重要性)を強調している。1923年(大正11年)9月1日に発生した関東大震災では、人びとが自発的に娯楽を求めていたのだ。そして、「生活の余裕があって而(しこう)して後に娯楽があるのではない。寧ろ其の反対に、娯楽があって而(しこう)して後に生活の余裕が生ずるのである[58]」と断言する。そして、「生産の為めの人生ではない、『物』の為めの『生活』ではない、其の逆に人生の為の生産である、『生活』の為の『物』であるという当り前な考を、当り前に実現させ様として、心ある人はもがいている[59]」と指摘している。ここから、グレーバーによる「経済」と「生活」の議論との共通点を見いだすことができる。では、「補償なき自粛」が政治によって解消されたときに、はたしてライブハウスを「経済」(もしくは「文化産業」)ではなく「生活」(もしくは「文化」)の問題として語ることができるのだろうか。

 

自助、共助、公助〜「あとがき」に代えて

2020年9月16日、安倍政権を引き継ぐことになった菅義偉首相は就任会見で、「私が目指す社会像、それは自助・共助・公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる。そして、家族、地域でお互いに助け合う、その上で政府がセーフティーネットでお守りをする、こうした国民から信頼される政府を目指していきたいと思います」と表明した[60]。ここで用いられた「自助・共助・公助」は、賛否両論の物議をかもすことになった。

 

そもそも、ここで用いられている「自助」の優先は、自由民主党の政策である「個々人が国に支えてもらうのではなく、自立した個人が国を構成するという考え方」にのっとったものだ[61]。もっとも、新型コロナウイルス禍のなかで「自助」を語るのは、「自己責任」を想起させる新自由主義につながるものだという指摘はうなずけるものだ。これまで「補償なき自粛」のもとで「自助」を強いられてきたライブハウス文化は、もはや努力の限界に達している。そして、好むと好まざるとにかかわらず、「共助」や「公助」による存続を模索せざるを得ない状況のなかで、急場を凌ぐのに精一杯だ。

 

2021年1月18日にはじまった通常国会における菅首相の施政方針演説には、「一人ひとりが力を最大限発揮し、互いに支え、助け合える、『安心』と『希望』に満ちた社会を実現する[62]」という一節があった。就任会見での直接的な言葉遣いこそ避けたものの、残念ながら、そこからは「自助・共助・公助」が透けて見えてしまう。


参考文献
ジャン・デュビュッフェ/杉村昌昭訳『文化は人を窒息させる』人文書院、2020年
デヴィッド・グレーバー/酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹訳『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、2020年
ナオミ・クライン/幾島幸子、村上由見子訳『ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』岩波書店、2011年
宮入恭平『ライブハウス文化論』青弓社、2008年
宮入恭平『ライブカルチャーの教科書―音楽から読み解く現代社会』青弓社、2019年
レベッカ・ソルニット/高月園子訳『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』亜紀書房、2010年


 

1 ^ 「新型コロナウイルスに関連した肺炎の患者の発生について(1例目)」「厚生労働省ウェブページ」〔https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_08906.html〕2021年1月20日閲覧

2 ^ 「新型コロナウイルス感染症対策本部の設置について」「首相官邸ウェブページ」〔https://www.kantei.go.jp/jp/singi/novel_coronavirus/th_siryou/konkyo.pdf〕2021年1月20日閲覧

3 ^ 「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針の策定」「厚生労働省ウェブページ」〔https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000600168.pdf〕2021年1月20日閲覧

4 ^ 「イベントの開催に関する国民の皆様へのメッセージ」「厚生労働省ウェブページ」〔https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00002.html〕2021年1月20日閲覧

5 ^ イベントの自粛要請を受けて、同日に東京ドーム公演を予定していたperfume(『perfume』〔https://www.perfume-web.jp/news/individual.php?id=3464〕2020年9月20日閲覧)やEXILE(『EXILE mobile』〔https://m.ex-m.jp/news/detail?news_id=28722〕2020年9月20日閲覧)は、当日に公演の中止を決定している。その一方で、シンガーソングライターの椎名林檎のユニットである東京事変は、2020年2月29日に東京国際フォーラムでの公演をおこない、賛否両論の物議をかもした(「東京事変Live Tour 2020」『東京事変』〔https://tokyojihen.com/live/〕2021年1月20日閲覧)。

6 ^ 「令和2年2月29日 安倍内閣総理大臣記者会見」「内閣官邸ウェブページ」〔https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0229kaiken.html〕2021年1月20日閲覧

7 ^ 同ウェブサイト

8 ^ 同ウェブサイト

9 ^ 音楽ソフト市場とライブ・エンタテインメント市場の推移については、宮入恭平『ライブカルチャーの教科書―音楽から読み解く現代社会』(青弓社、2019年、pp.9-12)に詳しい。

10 ^ この調査では、「ライブ・エンタテインメント市場規模」を「音楽コンサート(音楽市場)とステージでのパフォーマンスイベント(ステージ市場)のチケット推計販売額合計」と定義している。ここでは、音楽市場のデータのみを使用している。(「ぴあ総研、2019年のライブ・エンタメ市場が6,000億円を突破し過去最高となる速報値を公表。2020年のコロナ禍の影響を試算」『ぴあ』〔https://corporate.pia.jp/news/detail_live_enta_20200630.html〕2021年1月20日閲覧)。

11 ^ 「2020年のライブ・エンタテインメント市場は、対前年約8割減に。ぴあ総研が試算値を下方修正」『ぴあ』〔https://corporate.pia.jp/news/detail_live_enta_20201027.html〕2021年1月20日閲覧

12 ^ ライブハウスの全体像については、宮入恭平『ライブハウス文化論』(青弓社、2008年)に詳しい。また、新型コロナウイルスのパンデミック直前までのライブハウスをめぐる状況については、前掲『ライブカルチャーの教科書』(pp.149-160)に詳しい。

13 ^ 「感染の3人、大阪で同じライブに 2月15日に開催」『日本経済新聞』2020年2月29日

14 ^ 「感染確認の3人が大阪市豊島区のライブハウスに 症状あれば『保健所に』」『毎日新聞』2020年2月29日

15 ^ 大阪府の健康医療部は、クラスター発生の経緯を明らかにしている(大阪府医療部「新型コロナウイルス感染症患者が発生した府内のライブハウスへの対応について」「大阪府ホームページ」〔http://www.pref.osaka.lg.jp/hodo/index.php?site=fumin&pageId=37780〕2021年1月20日閲覧)。

16 ^ 新型コロナウイルス禍では、SNSなどによって不確かな情報が大量に拡散されてしまう「インフォデミック」(「インフォメーション(情報)」と「エピデミック(流行拡大)」を合わせた造語)への注意がうながされている。

17 ^ たとえば、「『高リスク3条件』そろうライブハウス…混雑・近くで発生・密閉空間」(『読売新聞』2020年3月11日)といった見出しがつけられた記事も掲載されている。

18 ^ 小池都知事は対象となる業種の一例として、「若者はカラオケやライブハウス、中高年はバーやナイトクラブ」をあげ、「密閉空間、密集場所、密接会話といった条件が重なる場所」を強調している(「小池知事『知事の部屋』/記者会見(令和2年3月30日)」「東京都ウェブページ」〔https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/governor/governor/kishakaiken/2020/03/30.html〕2021年1月20日閲覧)。

19 ^ 2020年3月から12月のあいだに、COVID-19の影響によって閉店を発表したライブハウスは44店にのぼっている(八木橋一寛「コロナ禍により閉店したライブハウス一覧」〔https://note.com/tinyrecords/n/n2fda538eb9bb〕2021年1月20日閲覧、「新型コロナウイルス感染症の影響により閉店を発表した音楽会場」『ライブ部』〔https://www.livebu.com/covid19/close/〕2021年1月20日閲覧)。もっとも、実際にはこの数字以上のライブハウスが閉店している可能性もある。

20 ^ 小池都知事は、「ライブハウスなどについても自粛をお願いする要請を、個別に行ってまいりたいと考えております」と発言している(「小池知事『知事の部屋』/記者会見(令和2年3月25日)」「東京都ウェブページ」〔https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/governor/governor/kishakaiken/2020/03/25.html〕2021年1月20日閲覧)。なお、この会見を受けて、行政から自粛を要請する文書が直接届けられた都内のライブハウスは少なくないようだ(筆者によるライブハウス関係者へのインタビュー)。

21 ^ 新型インフルエンザ等対策特別措置法にもとづき、2020年4月7日に新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言が発出された(「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言」「内閣官房ウェブページ」〔https://corona.go.jp/news/pdf/kinkyujitai_sengen_0407.pdf〕2021年1月20日閲覧)。

22 ^ 2020年4月10日の緊急事態措置において、東京都では感染拡大防止のための休業を求めており、そこにはライブハウスも含まれている(「新型コロナウイルス感染拡大防止のための東京都における緊急事態措置等」「東京都ウェブページ」〔https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2020/04/10/documents/27_00.pdf〕2021年1月20日閲覧)。

23 ^ 感染拡大防止のため、2020年4月16日から5月6日の休業要請に応じた事業主に対して、東京都は助成金の支給をおこなった。しかし、あくまでも一時的な協力金にすぎず、損失を補填するものではなかった(「『東京都感染拡大防止協力金』の受付を開始します!」「東京都ウェブページ」〔https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2020/04/22/11.html〕2021年1月20日閲覧)。その後、5月7日から25日の休業要請に応じた第2回目となる協力金の支給もおこなわれることになったが、行政はあくまでも(補償ではなく)協力金という立場を保持している(「東京都 感染拡大防止協力金」「東京都ウェブページ」〔https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2020/05/19/16.html〕2021年1月20日閲覧)。また、「第2波」とされる8月3日から9月15日までの期間、酒類を提供する飲食店等を対象に22時以降の営業の自粛を要請し、これに協力する店舗に対して8月分(8/3~8/31までの時短営業)として20万円、9月分(9/1~9/15までの時短営業)として15万円の協力金「営業時間短縮に係る感染拡大防止協力金」を給付することになった(「東京都 飲食店などに営業時間の短縮要請へ 協力金支給の方針」「NHKウェブページ」〔https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200730/k10012541011000.html〕2021年1月20日閲覧)。

24 ^ 「新型コロナウイルス感染症対策本部(第51回)」「首相官邸ウェブページ」〔https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/actions/202101/07corona.html〕2021年1月20日閲覧)。

25 ^ たとえば、サザンオールスターズは6月25日に横浜アリーナ(「サザンオールスターズ特別ライブ2020」〔https://2020live625.southernallstars.jp/〕2020年9月20日閲覧)、サカナクションは8月15日と16日に特設会場(「SAKANAQUARIUM 光 ONLINE」〔https://sakanaction.jp/feature/sakanaquarium_online〕2020年9月20日閲覧)、ASIAN KUNG-FU GENERATIONは9月8日にZepp Yokohama(「ASIAN KUNG-FU GENERATION」〔http://www.asiankung-fu.com/s/n80/page/smoj_info_archive?521242〕2020年9月20日閲覧)から、有料のオンライン配信ライブをおこなっている。当然のことながら、質の高い音響と映像を安定した回線で提供するためには相応の費用がともなうことになる。さらに、その代価としてのチケット代(サザンオールスターズは3,600円、サカナクションは4,500円、ASIAN KUNG-FU GENERATIONは2,970円)の売り上げを見込まなければならない。こうした「興行としてのライブ配信」は、大手音楽産業だからこそ実現可能になる。

26 ^ スガナミユウ「ライブハウス/クラブは、『配信は代替にはならない』と主張をするべき。」『note』〔https://note.com/yusuganami/n/ncca904edd424〕2021年1月20日閲覧

27 ^ 『#SaveOurSpace』〔http://save-our-space.org/〕2021年1月20日閲覧

28 ^ 『#SaveOurLife』〔http://save-our-space.org/saveourlife/〕2021年1月20日閲覧

29 ^ 『SAVE the CINEMA』〔https://savethecinema.org/〕2021年1月20日閲覧

30 ^ 『演劇緊急支援プロジェクト』〔https://www.engekikinkyushien.info/〕2021年1月20日閲覧

31 ^ 『#WeNeedCulture』〔http://save-our-space.org/weneedculture/〕2021年1月20日閲覧

32 ^ 「業種ごとの感染拡大予防ガイドライン一覧」から確認することができる(「新型コロナウイルス感染症対策」「内閣官房ウェブページ」〔https://corona.go.jp/〕2021年1月20日閲覧)。

33 ^ 『一般社団法人ライブハウスコミッション』〔http://lhc.tokyo/〕2021年1月20日閲覧

34 ^ 『NPO法人日本ライブハウス協会』〔http://j-livehouse.org/〕2021年1月20日閲覧

35 ^ 『日本音楽会場協会』ウェブサイト〔https://www.japan-mva.com/〕2021年1月20日閲覧

36 ^ 同協会は、2020年6月26日に「飲食を主体とするライブスペース運営協議会」から名称変更している(『日本ライブレストラン協会』〔https://www.live-restaurant.com/〕2021年1月20日閲覧)。また、最新版(2021年1月15日時点)では、日本ライブレストラン協会はライブハウスではなくライブレストランのガイドライン策定に当たっている(「業種別ガイドライン(令和3年1月15日時点)」〔https://corona.go.jp/prevention/pdf/guideline.pdf?20210115〕2021年1月20日閲覧)。

37 ^ 従来の福祉国家は、失業者や高齢者、障害者を単なる福祉の受給者としてしまうことで、その自発性や自尊心を損なっていると批判するソルニットは、アナキズム(無政府主義)的な立ち位置にあるといえるだろう(レベッカ・ソルニット/高月園子訳『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』亜紀書房、2010年)。

38 ^ 災害に直面した人びとがショック状態に陥り、それにつけこんだ為政者が大胆な改革をおこなう「ディザスター・キャピタリズム(惨事便乗型資本主義)」を懸念するクラインは、社会民主主義的な福祉体制の必要性を訴えかけている(ナオミ・クライン/幾島幸子、村上由見子訳『ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』岩波書店、2011年)。

39 ^ とくに、2011年3月11日に発生した東日本大震災(3.11)では、多くのライブハウスが影響を受けることになった。ポスト3.11のライブハウス文化については、宮入恭平、佐藤生実『ライブシーンよ、どこへいく―ライブカルチャーとポピュラー音楽』(青弓社、2011年、pp.156-162)に詳しい。

40 ^ クラブカルチャーの風営法改正をめぐる問題は、磯部涼編著『踊ってはいけない国、日本―風営法問題と過剰規制される社会』(河出書房新社、2012年)、磯部涼編著『踊ってはいけない国で踊り続けるために―風営法問題と社会の変え方』(河出書房新社、2013年)に詳しい。

41 ^ この時点でライブハウスの業界団体として存在していたのは唯一、「NPO法人日本ライブハウス協会」のみだった。改正風営法による「特定遊興飲食店営業」の許可申請にともない、ライブハウスも該当する可能性があることから、その対策として新たに発足したのが「一般社団法人ライブハウスコミッション」だった。

42 ^ 風営法改正がクラブカルチャーに与えた影響については、前掲『ライブカルチャーの教科書』(pp.55-58)に詳しい。

43 ^ 村上春樹『風の歌を聴け』講談社、1979年

44 ^ ジャン・デュビュッフェ/杉村昌昭訳『文化は人を窒息させる』人文書院、2020年、p.36

45 ^ 同書、p.54

46 ^ 同書、p.79

47 ^ 同書、pp.138-139

48 ^ 同書、p.139

49 ^ デヴィッド・グレーバー/酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹訳『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、2020年、pp.27-28

50 ^ 同書、p.364

51 ^ 同書、p.412

52 ^ デヴィッド・グレーバー/片岡大右訳「コロナ後の世界と『ブルシット・エコノミー』」『以文社』 〔http://www.ibunsha.co.jp/contents/graeber02/〕2021年1月20日閲覧

53 ^ デヴィッド・グレーバーは古典的な「経済」の意味を「生産性」に従属する「余剰」の獲得と説明しながら、「シット・ジョブ」である「エッセンシャル・ワーカー」の大部分は古典的な意味での「生産性」をともなわないと主張する。ウイルス禍において「経済」の再始動は、何よりも「ブルシット・ジョブ」からの呼びかけというわけだ(同ウェブサイト)。ちなみに、『ブルシット・ジョブ』の訳者のひとりである酒井隆史は、ネオリベラリズムの帰結としての「ブルシット・ジョブ」の蔓延をあげている。たとえば、資本主義に内在する「数量化しえないものを数量化しようとする欲望」は「シット・ジョブ」にまで拡張する。しかし、そこで生じる摩擦は、イギリスの故マーガレット・サッチャー元首相の「この道しかない(“There is no alternative”= TINA)」というスローガンをイデオロギーとするネオリベラリズムによって抹消されてしまうのだ(酒井隆史「ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか」『講談社ビジネス』〔https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75577〕2021年1月20日閲覧)。

54 ^ 前掲ウェブサイト「コロナ後の世界と『ブルシット・エコノミー』」訳注1

55 ^ 同ウェブサイト、訳注1

56 ^ 同ウェブサイト、訳注1

57 ^ 同ウェブサイト、訳注1

58 ^ 権田保之助「民衆娯楽論」『権田保之助著作集第2巻』学術出版会、2010年、p.210

59 ^ 同書、p.210

60 ^ 「菅内閣総理大臣記者会見」「首相館的」〔https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2020/0916kaiken.html〕2021年1月20日閲覧

61 ^ 「日本の再起のための7つの柱(原案)」「自由民主党」〔https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/recapture/pdf/061.pdf〕2021年1月20日閲覧

62 ^ 「【全文】菅首相 施政方針演説」「NHKウェブページ」〔https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210118/k10012820521000.html〕2021年1月20日閲覧