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Yan Junの過去と変化:Yan Junインタビュー

北京でYan Junと、ある芸大敷地内にある美術館の展示を一緒に見に行ってから、芸大生が通う麺料理屋で遅い昼食をとった。兼ねてからYan Junには「インタビューさせてくれ」と申し込んでいたので、この機会にと、Yan Junの了承を得て録音ボタンを押した。ひとつひとつの会話が面白いYan Junは、(実際は彼が英語で話すともっと面白いのだが、ここでは日本語に訳してしまっているので彼のユーモアが100%表現できていない事は残念であり、申し訳ない。)インタビューとなるとどういった会話を繰り広げるのか、と、少し楽しみに、少し緊張していた。もしかしたら、私がどんどん質問をふっかけていったほうがいいのかもしれない、と。しかし、Yan Junは、最初から最後まで、ずっとしゃべっていた。私が聞いていない事も、いろいろと語ってくれた。自分の過去についても、少し寂しそうにしながらも、ユーモアを交えて話してくれた。「もう過去を忘れてほしい」と話したYan Junの過去を、ここで私が晒すことは彼にとってどうなのか。ただ、彼が話したストーリーは、今の中国“ロック”シーンを理解する上で面白い話であると、私は思う。それに、彼は「俺にはシークレットはないからそのまま書いていいよ。」とも言ってくれた。

 

 


・・・レストランに入りながら

 

俺は音楽をやってる。「サウンドアートをやってる人」って言われたくないなあ。俺のやってる音楽はサウンドアートじゃなくて、ただの「サウンド」。

 

──ただ、Yan Junは北京でアート界隈の人なのかと思ってた。

 

ここに住んで長いからアート界隈にも知り合いはいるけどね。

 

──北京に住んで何年?あと、なんで北京に住むことにしたの?

 

15年前に引っ越してきた。今41歳だから、27歳ぐらいの時かな。

 

──どうして北京に?仕事の都合?

 

いや、仕事を辞めて北京に来た。当時の彼女が北京に住んでて。北京で彼女と一緒に住むことにして、でも別れて、その後その彼女はアメリカに移住したね。それから俺も今の奥さんと北京で会った。

 

──じゃあ、北京で何かしたい、っていうよりかは、彼女の都合で。

 

昔は北京に出ていく事に意味を感じてたけど、今は感じないかな。今はいろんな土地の人を知ってるし、電話で話せるしね。

 

──話を戻すと。でも日本ではアートシーンでの演奏が多いと思うけど。

 

うん。自分のコネクションがそうなってるよね。FENに参加して、自分以外の3人はみんなアート界とのネットワークを持ってる。それが理由だと思う。中国でも、アート界隈で仲の良い人たちがいたけど、もうその付き合いはなくなっちゃったね。知っての通り、俺は初対面の人とも話しやすい性格。すぐに友達になれる。あと、1年に100本以上コンサートを企画してた事もあった。みんな俺の事を知ってて、アート界隈の人たちも「うちのギャラリーで演奏しない?」「キュレーションしない?」とか、「グループ展に参加しない?」とか言ってきてくれて、アートの現場で演奏する機会も何度かあった。ただ、だんだん、お互いがお互いを好かなくなってきたんだよね。嫌いっていうのじゃなくて、お互いに干渉しないほうがよくなったというか。
1回、2回、と断ると、向こうも誘わなくなってくるしね。あと、自分にも問題があった。たまに自分の暗部みたいなところがでてきて、ブチ切れちゃったり。それとか、わざと最悪なことやったり。人の関係ってすぐそういうので壊れる。

 

──音楽を始めたきっかけは?ああ、音楽っていうか、「サウンド」だよね?

 

うん。サウンドアートはやってないけど。昔は、俺の事を「サウンドアーティスト」って書いた人にはいちいち訂正するように連絡入れてた。

 

──ほんとに?(笑)

 

うん。本当にやってた。でも、キリないからね。もういいやと思って。

 

──自分では何やってる人だと言われたい?肩書きというか。

 

音楽を演奏する人。ただ、その音楽には音しかない。

 

 

当時ってなんでも「ロック」って呼んで良かったんだよね。

 

──それで、始めたきっかけは?

 

元々は音楽批評家だった。中国ロックの。だからロック界隈にいる人間だった。

 

──音楽雑誌とかに書いてたの?

 

うん。100万以上の記事を書いてきたと思う。媒体数にすると100は越える。あの頃はたくさん書いてた。

 

──ロック、って言ってもいろいろあるけど、どんなロック音楽?

 

えーっと、基本的に、当時ってなんでも「ロック」って呼んで良かったんだよね。フォークも、グランジもパンクもメタルもデスメタルもレゲエも、全部。俺が批評家としていろいろ書いてた頃は、90年代半ば。エレクトロでもロックって言っちゃってたかな。大きなグループとして、メジャー音楽ではないものを全部まとめて、細分化してなかった。

 

──元々批評家とかライターになりたかったの?

 

いいや。ただ、当時の中国では、俺だけが音楽批評だけで食えてた人間らしい。

 

──へー!今も音楽について書いてる?

 

少し。ただその後、90年代半ば以降、徐々にジャンルが細分化されていったんだよね。今では誰もフォークやエレクトロを「ロックだ」って言わない。15年前は、どんなジャンルでもひとつの大きなシーンのなかにあったんだ。アンダーグラウンドで。

 

──ということは、当時もたくさんのバンドが中国にいた、ってこと?

 

うん。たくさんいたよ。どのバンドも新しい事に挑戦しようとしてたけど、基本的にはカルチャーの一部で、特に素晴らしいバンドがどんどん生まれてた訳じゃないね。

 

──当時のバンドで、お気に入りのバンドは?

 

Tongue(舌头)

 

──今そのバンドは活動してる?

 

うん。7、8年活動停止してたけど、ついこの前復活した。でももう聴きたくないかな。

 

──昔と変わった?

 

いや、それも知らない。このバンドは俺の親友だった。本当に良い友達だった。特にメンバーの2人とは、もう家族だった。

 

──じゃあ今は音楽関係なくただの友達?

 

いや。もうお互いにしばらく会ってないし、会いたいとも思わないかな。会う時間もないし、興味もない。もう、ロックシーンに足を踏み入れたくない。

 

──なんで?

 

ただ、もう俺のことを忘れて欲しい。なかなかみんな俺の過去のことを忘れてくれない。「Hi、彼が批評家のYan Junだ。」って今でも言われる。だからもうみんなにそのことを忘れて欲しい。

 

──かなり中国で有名だったんだね?

 

うん。いつか、自分の今と昔の考えの違いを書こうと思ってる。自分の昔の書き方はいつもはっきりと断言してたり、戦ってた。「私は◯◯を信じる」とか、「私は◯◯に対して反抗する」とか。でも、今の俺は何も信じてないし「私は◯◯を信じる」って書けない。あと、特にTongueに関してだけど、昔はスローガンみたいなものを言ってなかった。今は「俺等の音楽は正義と、自由と、なんとかかんとか」とか。なんか憲法みたい。
そういうの全部、今はイヤで。俺は人生の中で何回も考え変わってるんだよね。

 

──その変化は、Yan Junの性格によるもの?

 

さあ。その変化こそが、俺の性格を作ってるのかも(笑)。わからない。いっつも嫌な気分になる。俺はいつも、いつのまにか友達を失う。自分で自分の考えを変える。でも友達は変わらない。だから俺は友達から離れる。それで、また会ったとしても、すごくギクシャクして。

 

──わかるような気もする。私も、2、3年で、仲の良い友達が変わったりする。

 

あ。じゃあ俺のほうが長いかな。俺は5年ぐらいで変わっていく。

 

──(笑)

 

中国のアンダーグラウンドロックは、10年ぐらい前に終わったんだ。

 

──それはYan Junが思うに、ってこと?

 

うん。SARSがあったのが2003年。あのとき、みんな活動を止めた。数ヶ月間、ライブもなかった。みんな外に出られないし、感染が怖いから外に出なかった。当時、仲良かったバンドはみんな活動停止したね。一部のバンドは、それで本当にバンドを辞めちゃったし、一部は戻ってきた。Tongueみたいに、7、8年で戻ってきたバンドもいるし、徐々に戻ってきたバンドもいる。

 

──そのとき、Yan Junは音楽批評をやめたの?

 

ほとんど辞めた。それで、新しい友達と一緒に、自分で音楽作り出した。それから、オーガナイズ、演奏、物書きとしても新しい事書き始めて、どんどん忙しくなっていった。だからロックシーンとはどんどん遠くなってしまったし、彼らも、SARS以降、ほとんどが消えちゃった。他の国に移った人もいるし、音楽以外のことを始めた人もいる。うん。その頃に実験音楽とか即興音楽が中国でも育ち始めたかな?ノイズとかも。

 

 

夢は、いつか死ぬ。

 

──それが自分も音楽をつくるきっかけになった、と。

 

うん。最初は王凡やFM3と一緒にやってた。当時のFM3は、とても静かで綺麗な音楽をやってた。いつだったか、俺とFM3はまた違う方向に進んでいったんだけど。FM3は本当に有名になったし、Buddha Machineも「もっと売らなきゃ」っていうプレッシャーはあると思う。彼らの音楽は変わって、俺は今の彼らのスタイルが好きじゃないし、それに、FM3も俺のやってることは好きじゃないと思う。ただ、ロックミュージシャン達が俺にとって家族だったように、FM3の1人も、俺の家族のような存在だった。

 

FM3…
北京拠点の電子音楽デュオ。『Buddha Machine(ブッダマシーン)』の製作者でもある。
http://www.fm3.com.cn

 

──影響を受けた人や作品は?

 

その当時、王凡やFM3とたくさんコンサートを企画してたんだけど、一つの部屋のなかのいろんな場所にそれぞれの演奏家の位置を決めて、同時に演奏する、みたいなこともやってた。一番最初に自分が使った楽器は、楽器じゃないけど、レコーダーで、フィールドレコーディングを主にやってた。でもそのとき好きだったのは、確かJohn Duncanだった。音がパワフルでダークなんだけど、レトロで。あとFrancisco Lopezも好きだった。それとフィールドレコーディングの音源もよくチェックしてた。Eric la casaとか、Toshiya Tsunodaも。こういうタイプのフィールドレコーディングは好きだね。あと、2005年ぐらいだったかな?自分の声も使い始めた。チベット仏教のお寺に行って、唄の勉強したんだよね。

 

──へえ!中国のどこで?

 

俺の故郷の近くで、甘粛省にあるお寺だよ。

 

──でも、最近の音源とか作品で、声、使ってないよね。

 

怠けてるからね。声使うには、ちゃんと練習してないといけない。でも、ポエトリーリーディングみたいなことや、声を使った即興演奏はたまに少しやってる。あと、当初はラップトップ使って、フィールドレコーディングのサンプルとかを使って演奏してたんだ。でも、2006年だったか、台湾で演奏した時に、いや演奏する前だ。PCが壊れて、もうPC使うの辞めた。それから、今と同じようなフィードバックを使った奏法に移行していったんだ。うん。それから、2008年か2009年ぐらいまでは、もっとノイズで、狂った音をやろうとしてたね。2005年から、毎週オーガナイズもしてたし。北京で毎週FM3たちとイベントやって、全部で167回やったのかな。そのイベントのメンバーは、本当に家族みたいだった。みんなお互いが大好きだったし、誰でも入ってこれるオープンな雰囲気だったし、オーディエンスも固定客じゃなくていつもいろんな層が混ざってた。みんな平等でいい雰囲気だった。ただ、やっぱり最終的にはいろいろあった。まず、FM3が有名になった。そうすると、俺たちがいた北京のシーンも有名になって、俺も、音楽家として有名になった。でも実のところ、すごい気分悪かったんだ。自分の音楽なんて最低だったから。つらかった。それと、その頃そのイベントでは、いろんな他ジャンルのアーティストや音楽家と変なコラボレーションをしてた。それで何回も失敗したんだよね。それ以外にも、イベントのチームのなかでは、個人的な衝突もあった。イベントはついに終わって、俺は、また変わったんだろうと思う。うん。もう家族みたいなのはいいや、って思った。そのときの自分の変化は、もう家族はいらない、っていうことかな。
そういうのって、素晴らしい夢なんだよね。ただ、夢は、いつか死ぬ。最後には終わってしまうように、決まってる。夢が死んだときってものすごくつらくて、数年間は引きずったりもするけど、でも、俺はその結果が好き。それを受け入れたい。そういう瞬間に、ああ、新しいこと始める良いチャンスだ、って思えるようになったんだよね。
そう考えると、今、自分が一回夢を終わらせた後の、現在まで続いてる音楽家としての活動、これに変化が現れるときなのかもしれないと思ってる。どうやら今の周りの人たちと俺は、違う方向に進み始めているし、徐々に離れていってる。

 

──まあ、北京も大きいし音楽に関わる人は無数にいるし、いろいろあるよね。ところで、家で音楽とか聴くの?

 

聴くよ。お茶のみながら。昨日は、スウェーデンのグラインドコア、フランスのサタニック・ロックを聴いてたかな。あとCarl Michael von HausswolffのEVP。(※電子音声現象 Wikipediaより)ウィリアム・S・バロウズが妻を殺した部屋で録音されたもの。

 

──CDとかレコード、普段買う?

 

買いたい。いや、けどもう、場所がなくて、買いたくないかな。こないだヨーロッパツアー行った時にたくさん買ってきて、そうするともう場所がないね。

 

──もうちょっと郊外の広い部屋に引っ越すとか?

 

いや、そうしちゃうと、北京でコンサート終わってから、帰りのタクシー代が高くなるんだよ。

 

──なるほど。日本の音楽シーンはどう見てる?

 

今、変化している時期なのかな?と思ってる。昔は、日本のこういう音楽って、ものすごくピュアで、一点を突き詰める手法が多かったと思う。でも、即興音楽や実験音楽のなかでは若い人が活躍し始めてて、音楽演奏もインスタレーションもする梅田哲也さんや、川口貴大さんが印象的。今は梅田さんや川口さんみたいに、いろんな表現方法をミックスする形が増え始めてるのかな?と予想してる。単純に、インスタレーションと音楽、っていうミックスだけではなくて、例えば、非常階段と誰かのコラボレーション、非常◯◯っていう全部とか。こういう動きが最終的にどこに向かうのかはわからないけど、何か次のステージに向かっている気はするね。

 


 

 

Yan Jun  颜峻
1973年生まれ。北京在住。フィードバックノイズを用いた即興演奏を行なう。Far East Network、Tea Rockers Quintetのメンバーでもある。SUB JAMレーベル主宰。Living Room TourやMiji Festivalなど、数々のシリーズイベントをオーガナイズしてきた。文筆家、詩人でもある。2014年11月より開催中の上海ビエンナーレにインスタレーション作品を出展中。
http://www.yanjun.org/