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黃大旺(ファン・ダワン)インタビュー:黑狼那卡西、民国百年、勸世阿伯、冰島三郎、翻訳家などとして活動する黃大旺への質問

──実は、ダワンさんって本当にいろんな活動をしているじゃないですか。その様々な活動を、バイオグラフィのように紹介できればいいなと思って、今回はインタビューさせていただきたいと思いました。

 

プロフィールなどではどうしても偏ってしまって、自分でもまだ整理中です。簡単なまとめや、具体的な自己紹介を、まだ完成させることができていない状態です。
私は最初は宅録からキャリアを始めました。20代に入ってから、自分の作ったデモテープを、台湾の放送局やレコード会社に送り込んでいました。全部ボツになってしまいましたが。
2000年代からライブ活動を始めました。YouTubeが誕生するまでは、音楽投稿サイトのmuzieなどに投稿していました。

 

──ライブ活動を始めたのは、台北ですか?

 

はい。だいたい2002年から、台北で他のバンドやミュージシャンとも出会って、ライブをするようになりました。そして、2004年からは日本に滞在しました。


──難波ベアーズによく行っていたと聞きました。

 

最初に難波ベアーズに出演したのは2005年頃でした。

 

──2004年までは、台北のどこでライブをしていましたか?

 

地下社會(*)や、聖界(Zeitgeist)というライブハウスもありました。

*地下社會(UNDERWORLD)・・・台北の師大路に位置したライブハウス。1996年8月1日オープン。2013年6月に閉店した。キャパシティはスタンディングで150名ほどの空間で、地下1階にあった。パブ感覚で音楽を聴きに行ける空間でありながら、台北の若手音楽家、実験的な音楽を包容していた。消防法をクリアできなかったことが引き金となり、閉店したと言われている。 http://underworld-taipei.blogspot.com

 

──どのライブハウスも、もうなくなってますよね。

 

もうないです。2003年頃にTHE WALLができて、そちらに行くこともありましたが、THE WALLの経営者は後に変わっています。1999年から2003年頃の動きです。

 

──2004年から、大阪に住んでおられましたよね。なぜ大阪に住もうと思われたんですか?


東京より大阪を選んだ理由としては、大阪のアンダーグラウンドシーンがあったからです。私は高校時代にBOREDOMSや少年ナイフを聴いていました。大阪はそういったバンドが生まれた場所なので、大阪に行きました。

 

──ダワンさんが大阪に行った頃の大阪って、あふりらんぽとか、zuinosin等が活動していたのではないでしょうか?

 

はい、あふりらんぽのライブを私が初めて見たのも大阪で、だいたい2004年ぐらいです。

 

──元々大阪のシーンを知っていて、大阪に行こうと思われたんですね。

 

そうです。

 

──Taipei Contemporary Art CentreのMeiyaから、ダワンさんがアートのリサーチプログラムで大阪に行っていたという話を聞いたことがあります。

 

それは、そこからさらに10年後、2014年頃のことですね。2014年の1月と5月、2回に分けて大阪へリサーチに行きました。そのプロジェクトは、釜ヶ崎の観察がメインでした。2004年から2010年まで大阪に住んでいた頃は、まず第一に、留学と仕事のためでした。5年半大阪に住んでいましたね。
そのときは大阪だけでなく、京都や神戸、名古屋、関東のいろんなバンドやアーティストを見ましたね。当時、天王寺にはまだ不思議の国のアリスというライブハウスがあって、ミドリというバンドも見ていました。


──とにかく、ライブをたくさん見に行ってらっしゃったと。ダワンさんが難波ベアーズで演奏するということもあったんですよね。


だいたい1〜3ヶ月に1回ぐらいですね。ライブを見に行くだけではなく、他のアーティストと一緒にリハーサルスタジオに入ってセッションをやることもありました。向井千恵さんが開催していた即興ワークショップにも参加して、参加者同士での交流もありました。大阪に滞在していたときに見て、一番印象に残っているのは、梅田哲也さんの表現です。


──留学、仕事、ライブの5年半を終えて、2010年ぐらいに台北に戻ってきたんですね。


はい、何ヶ月間かほとんど鬱状態で、外へはあまり出てなかったですが。実家に戻って、ライブの本数もあまり増やさずにゆっくり過ごしました。ライブ活動等も含めて活動が安定していくのは、2011年から2012年ぐらいのことでした。


──ということは、私が初めて台北に来て失聲祭(*)を見た、あの頃ですね。

*失聲祭(Lacking Sound Festival)・・・台北を拠点として活動するアーティストの姚仲涵、王仲堃、葉廷皓などによって立ち上げられたイベントシリーズ。インタビュー中の2011年や2012年当時は、2組のみのアーティストを招きパフォーマンスとトークの二部構成からなるイベントとして毎月1回開催していた。OffshoreウェブサイトおよびOffshore主催のイベントにて過去に紹介している。 https://offshore-mcc.net/column/107/


そう。私が最初に失聲祭に出たのはだいたい2010年の7月頃でした。そして8月頃には、失聲祭と同じ会場の南海藝廊で、「NOISE 80000V(噪音八萬伏特)」というイベントがありました。南海藝廊は今はもうなくなりました。そういった動きがあった2010年代頃、台北で、いわゆるクロスオーバーな表現をするようになりました。ダンスと即興演奏、あるいは他の領域のパフォーマーなどと、一緒にパフォーマンスするようになりました。


──台北を中心に、そういった領域を跨ぐ表現が盛んになっていた感じですか?


台中も高雄も、即興でパフォーマンスする団体が生まれていますが、それはこの2、3年のことですね。2012年ごろ、向井千惠さんが高雄や台南でツアーをしたとき、台南の地元のミュージシャンや台南芸術大学の学生たちとセッションするというイベントもありましたが。ただそういったイベントが、台湾では、文字や映像、記録に、なかなか残っていないんですよね。研究するにも、アーカイブがないから問題になっていたりはします。


──ダワンさんは、ご自身の周辺の出来事の年表が、頭の中に入っていてすごいですよね。

 

2010年頃からは、kandala records(*)の運営に私も参加して、音源を提供するようになりました。2010年から2013年までは、3枚ほどのコンピレーションに参加しています。

*kandala records・・・2009年に創立された台北を拠点とするインディペンデント・レーベル。ノイズ、即興、実験、前衛、サイケなど、台湾の音楽家から世界の音楽家まで幅広くリリースしている。 http://kandalarecords.tw


──kandala recordsの作品で、『民国百年』(*)にも参加されていますよね。

*民国百年・・・中華民国暦100年を迎える年に作成されたアルバムであり、ダワン氏とkandala recordsオーナーの張又升によるユニット名でもある。読み方は「ミンコクヒャクネン」と日本語で読む。 http://kandalarecords.blogspot.com/2011/09/minkoku-hyakunen.html

 

あれは2011年のプロジェクトでした。民国百年としてのライブは、2010年の年越しイベントから始まりました。ほとんど即興演奏をやっていました。


──kandalaから発売された『民国百年』の作品はフィールドレコーディングがメインのようですが、民国百年名義で演奏もしてたんですか?

 

はい、即興演奏で。唯一のアルバムでは、環境録音も合わせてアルバムにしました。いろんなサウンドスケープをあわせて編集し、コラージュして、ミュージックコンクレートのような感じです。

 

──あれ、本当に面白いアルバムでしたよね。インタビューとかも入っていて。私はまだ意味がわからないんですが。


意味がわからなくても聴いてもらえるようにしました。Sublime Frequenciesのアジアやアラブの放送局をエアチェックして編集したアルバムが、私は好きなんです。アフリカ、モロッコ、北朝鮮、タイとか。タイのエアチェックを編集したアルバムが一番面白いと思ってます。いわゆるワールドミュージックが好きな人たちが、「こういうアルバムが出るのは邪道だ」と言っていたとしても、私は、イメージ性とか、番組の雰囲気とか、コールインとか、コマーシャルとか、意味を考えてみて、聴くたびにイマジネーションが出てきます。


──ちなみに、『民国百年』アルバムの中でおばちゃんがしゃべっているものがありますが、あれはどういう内容なんでしょう?

 

それは、風俗というより、酒場みたいな。カラオケ酒場。

 

──スナック?

 

スナック、そうスナックの客引きです。あのおばちゃんたちの会話は、インタビューというよりかは、私たちが客引きされています。それを録音したという感じです。客引きをされている私たちが相槌を打つ。そういう録音でした。


──私は最初失聲祭でライブを見て、最近のダワンさんの活動を見て。幅がすごく増えた印象があります。カラオケのプロジェクトもやっていらっしゃる。

 

そのときどきで活動は変わりますね。『黑狼那卡西』というプロジェクトもあります。ノイズパフォーマンスと、これとは、一体両面な感じですね。

『黑狼那卡西』プロジェクト、つまり「ナガシプロジェクト」は(*那卡西は”NaKaXi”と読み、”流し”の意味)、カラオケ行為のパロディでもあり、まさに「流し」のようなプロジェクトだったのですが、キーボードや生演奏を取り入れるようになり、発展していきました。

カラオケは、最初は、いろんな曲を自分のアレンジでカバーし、適当に画像をつけて、ニコニコ動画に投稿したりしていました。

2012年にリリースした黑狼那卡西の作品では、ボーナスディスクとして、2006年から2009年までの録音を、『卡拉 OK 墳場歌集』(カラオケ墓場ソングブック)というタイトルでディスク化しています。(*)

 

*『黑狼臥室那卡西』Blackwolf Nagashi in Bedroom, yingfan (aka. Dawang Huang) KRAG01 http://kandalarecords.tw/post/100636630266/catalogue-krag01-blackwolf-nagashi-in-bedroom(※Offshoreに数枚在庫あり。欲しい方はお問い合わせください。)


──ノイズミュージックのような音楽から、カラオケに移行した、というのは面白いですが、機材や楽器を使わないパフォーマンスの方向に移った理由は?

 

それぞれのテーマで、それぞれ自分のセンスでやっています。勘で、「こういうアイディアはノイズで」「こういうアイディアは歌モノで」等と考えていますね。オリジナルのほうがよいものもありますし、あるいはカラオケで表現する場合もあるし。しかし、カラオケに関しては工夫をほどこす必要があると思っています。


──アルスエレクトロニカで、現地でカラオケしている映像ありましたよね。(*)

*アルバム『民国百年』は、2012年のアルスエレクトロニカにてHonorary Mentions賞を受賞している。

 

 

あれは、ベルリンですね。マウアー・パークという大きな公園の、丸い舞台でやりました。

アルスエレクトロニカといえば、2014年のオープニングでパフォーマンスしたことがあります。40人組のアマチュアブラスバンドと一緒に。

 

──え?


地元の有名な製鋼会社の吹奏楽部があったんですが、そのときは40人編成で

 

──40人の吹奏楽隊と一緒に?

 

そう、一緒に一曲やりました。

 

──ダワンさんはカラオケで?

 

そう。

 

──YouTubeとかあります?

 

たぶん見つからないと思います。

 

──何の曲をやったんですか?

 

同じく、『The Final Countdown』(Europe)。

 

──それが、アルスエレクトロニカのオープニングのひとつだったと。2014年の。


そう。滞在中には、リンツ市中心の広場でもパフォーマンスをやりました。

 

 

──カラオケとかの流れから、喵喵(*)とも絡むようになったんでしょうか?

*喵喵・・・ミャオミャオと読む。喵喵と呼ばれる女性の歌う動画が、台湾の動画サイトユーザーのあいだで大変な人気を得た。当時の正式なパフォーマンス名は勸世寶貝喵喵

 

それですね!いわゆる「勸世宗親會」(*)というユニットですね。このユニットの始まりは、まずは翁会長と呼ばれる、つまりは翁会長を演じる人が、「勸世美少女」という他の女の子とやっていたプロジェクトだったんです。翁会長の”中の人”、この人が「勸世美少女」と一緒に面白い曲を作っていました。そしてその後に、「勸世寶貝喵喵」(Trans Baby Miaomiao)を呼んで、『喵電感應』という電波な曲をつくりました。

*台湾では音楽ジャンルのトランスのことを、似た発音を用いて勸世(チュヮンスー)と表記する場合がある。

 


──ダワンさんは、翁会長の”中の人”ではないんですよね?

 

違います。別の人です。この翁会長の”中の人”が、簡単な機材、ロースペックでグルーヴィーな曲をつくることを試していました。ゆるいダンスミュージックを作るようになって、まず、勸世美少女を生み出し、勸世寶貝喵喵も生みだしました。その後、「せっかくだから3人組とかでやればいいじゃない」となって、3人目のメンバーを入れることになりました。「今度は美少女じゃなくて、おっさんとか出てきたらどうでしょう?」と。それで私が入って、「勸世宗親會」というユニットが生まれました。
勸世宗親會の”勸世”はトランスの意味ですが、音楽自体はトランスというよりも、慢搖。慢搖とは、中国語ポップミュージックの一種です。ミッドテンポの四つ打ちビートに載せた中国語ポップは概ねこの部類に属すると思います。中国語のポップミュージックといえばラブソングが多いです。そして、テンポもリズムもだいたい似かよっていて、曲と曲をつなげやすい。実際に曲がたくさんつながったメドレー形式を、串燒歌と言います。テンポを同じにして、曲をつなげていって組曲になるような。そういうイメージで勸世宗親會の曲は作られていました。


──勸世宗親會の音楽は、台湾の昔の歌謡曲に似ているような印象でしょうか?

 

そういった曲もあります。勸世宗親會では、美少女、喵喵、勸世阿伯である私、それぞれに持ち歌がありました。私の持ち歌は、50〜60年前ぐらいの、おっさんたちが歌った曲です。

 

──オリジナルではなくカバー?

 

カバーです。ほとんどがカバーですね。カバーする範囲もフォーカスを絞っていました。キーがそんなに高くないこと。そして懐メロ。それを中心にカバーしていました。

 

──台湾のおじさんおばさんならみんな知っているような歌?

 

そうです。ただ、若者はこういう歌に馴染んでいない。もしこういう昔の曲をカバーしてみたら、台湾の若い人も何か思うのではないかと。「阿伯」(読み:アペイ)は、いくつかある台湾の”おじさん”の呼び方のなかでも、”お父さんよりも年上”というような意味合いがあります。例えば、阿伯よりも阿叔のほうが年下ですね。
やっぱり勸世宗親會での一番人気は、喵喵でした。喵喵は去年卒業しました。本人が、「こういうカワイイ路線はもうやりたくない」と、なったようで。去年卒業してから、彼女は、「性感寶貝咪咪」(Sexy Baby Mimi)としてHIPHOPの人たちと一緒に音楽をやっているようです。台湾のかなり有名なラップのグループと一緒にやってますね。喵喵あらため咪咪。喵喵のイメージから抜け出したかったそうです。

 


──喵喵のときと比べて流行っていますか?

 

そうでもありません。『喵電感應』という曲はかなり電波でしたからね。喵喵は台湾の東海岸出身だそうなのですが、両親は台北で仕事をすることにかなり反対したらしいですよ。

 

──あの、てっきり、ダワンさんがプロデュースをしているのかなと思っていたんです。

 

私はそれほどの腕はないです。勸世阿伯の動画で一番再生数が多い動画は、私の顔が出ないものなんです。

 

──1年間ぐらいやってたんですか?

 

1年ぐらいですね。2016年頃です。去年から、ライブも少ないし、メンバーのスケジュールもなかなかあわなかったので。
 これが勸世阿伯の曲で一番再生回数の多い動画です。チマキだけが回っている。コメントも面白いものが書いてあります。「チマキが回っているだけでなぜか笑いが止まらない」とか書いてあります。

 


──これ、ダワンさんが歌ってるんですか?

 

そうです。曲のタイトルは『勸世阿北ㄉ尚水燒肉粽』、ㄉは、「の」の意味ですね。中文では「的」と書きますが、画数多く感じて面倒なときに、台湾では同じ発音の台湾注音「ㄉ」と書いたり日本語の「の」を書いたりします。この曲の意味。”尚水”は、最もおしゃれな、と言えると思います。”燒肉粽”はチマキです。つまり、”最もおしゃれなチマキ”。歌の言葉は、閩南語です。この閩南語、福建の閩南語とはまた違うと思います。チマキ売りの歌です。70年前ぐらいに台湾で広く知られた曲です。この曲を作詞作曲したのは、張邱東松という人。
この曲を1970年代頃に歌って成功した歌手、郭金發は、この曲をステージで歌っている最中に、亡くなったんです。最後のステージの動画もYouTubeに上がっているのですが、まず、声が出ない、でも最後までステージに立とうとしたというレジェンドです。ステージで心不全になり、病院に運ばれましたが、病院ですぐ亡くなったとのことです。国民的歌手です。

 

──70年前に生まれた曲ということは、第二次世界大戦後すぐですよね。

 

1949年ぐらいに生まれた曲ですね。(*)

*1949年頃に誕生した同曲はもともと『賣肉粽』というタイトルで発表され、台湾の当時のインフレと失業率の高さによる庶民の貧しさを嘆く歌でもあった。当時の国民党政府に歓迎されなかった歌であった。


──ダワンさんが曲を選んでカバーしたんですか?

 

そうです。翁会長と共同作業しますが、私は、できるだけみんな知っている曲からカバーしよう、という方針を提案して、決めました。初めてカバーしたのは、『勸世阿北的富酬』という曲です。映像は翁会長が作っています。こう、台湾を構成するものをコラージュして。

 

 

──映像は翁会長が作っていたんですね。喵喵や美少女の映像も?

 

そうです。喵喵は最初は歌詞づくりにも参加してましたが、ツアーが増えたこともあり、歌うことに集中するようになりましたね。翁会長は、喵喵に、こう、かわいいイメージでずっとやってほしかったみたいです。


──翁会長は音楽も作ってるんですか?

 

はい、音楽、映像、デザイン、マネジメントと。

 

──翁会長すごいですね。”中の人”が誰か、というのは公表されてないんですね。

 

翁会長は、表には出てきません。
『勸世阿北的富酬』という曲ですが、富酬という言葉、実は、復仇(意味:復讐する)と読みが一緒なんですね。これは、ネットで一部の人が使っているスラングです。元々の曲は、文夏という歌手が歌っていた『男性的復仇』という曲です。 酒場でのセリフを取り込んで、7インチのA面、B面、両方に曲が入ったシングルです。セリフが多いです。

 

 

文夏は日本の歌謡曲をたくさんカバーしていました。文夏は、50年代から活躍した歌手です。彼は、日本の音楽学校で声楽を学んだそうで、歌声も、その時代の日本の歌手と似ているような気がします。
その時代、台湾のラジオで日本のラジオドラマがこっそり流れたこともあったらしいですが、当時の台湾ではかなり危険だったはずです。(*中華民国では戒厳令が布かれていた時代。)文夏は、その頃に日本語の歌謡曲を閩南語に翻訳しカバーしたので、発禁となった曲が多いのです。
私が曲を選んで、翁会長には、テンポはこのぐらい、キーはこのぐらい、というデモトラックを送って、翁会長がバッキングのビートを作ってくれる、という感じで曲を完成させていました。

 

──ダワンさんの着眼点、いつも面白いですよね。人が目をつけないところに、かなり深く潜っている。台湾の人、特に若い人から反応はありますか?

 

一部の人からはあります。反応してくれるのは、大学生以上の人がおおいですね。20代とか。例えば、私が勸世美少女と台湾の教育部の前でパフォーマンスしたものもあります。

 

 

──2016年。これは何かの運動ですか?

 

台南芸術大学の学生たちによる運動です。台南芸術大学が他の大学と併合する計画が出たときに、学生らによって行われた併合に反対する運動です。

 

──これは台北の、中華民国の教育部の前ですか?

 

そう。学生たちはツアーバスで台南から台北にやってきました。台南芸術大学は台南の郊外にありますから。

このときは、台湾の有名なパンクバンド、LTK(濁水渓公社)の『農村出事情』という有名な曲をカバーしています。教育部前の歩道で、台南芸術大学の学生たちが簡単なステージを作りました。

 

──今は勸世阿伯はやってないんですか?

 

一応、勸世宗親會の活動は終わりましたので、今は解散状態ですね。しかし、翁会長から、また新しいプロジェクトの提案があれば、場合に応じて協働するかもしれません。
私は今、他にバンドをやっています。黑狼那卡西から派生したバンドもできました。「冰島三郎」というんですが、北島三郎をもじった名前です。ドラムなしで4人でやっています。Saxは謝明諺、かなり有名なジャズミュージシャン。そしてボーカルには謝明諺の奥さん、もう一人ベースと、そして私です。ステージ上でしゃべっていることは、だいたいダジャレか下ネタです。

 


──曲はどんな感じのものをやるんですか?

 

曲は。こういう(動画を指しながら)パフォーマンスを繰り返してますね。脇毛を剃ったり。こういうパフォーマンスは私にしかできないと言う人もいます。他のバンドのステージに冰島三郎で乱入することもあったり。今年も大港開唱(MEGA PORT FESTIVAL)には出る予定です。

 


──ダワンさん、フェイスブックなどでは政治的な発言も多いですけど、パフォーマンスではそういった発言や行動を取り入れたりしますか?

 

場合によって、ですね。政治的なメッセージが強いバンドが同じ現場にいれば、テーマに合わせてやったりはしますが。自分の黑狼那卡西プロジェクトについては、自分のテーマを設定して、そのテーマでスケッチして、ネタを埋め込むようにしてやっています。

 

──黑狼那卡西プロジェクトって、具体的に言うとなんなんでしょう?

 

生演奏の場合は、黑狼〇〇那卡西、というように、名前の中間にそのテーマが入ったりします。毎回違うものになりますね。


──基本的には本名であまりパフォーマンスしないですか?

 

ありますよ。即興演奏、映画音楽や、映画に出演する場合は、本名でやっています。

 

──それ以外の、例えば、カラオケだったり、そういうプロジェクトは、黑狼那卡西名義でやってるということですね。映画音楽の制作もされたと。これまでどういったものを?

 

それほど多くはありませんが、短編映画などです。

 

──翻訳業についても聞かせてください。私が知っているものでは、平野甲賀さんの書籍を翻訳されていたり。結構たくさんこれまで書籍の翻訳をされていますよね。

 

藤原新也さん、四方田犬彦さんなど。最近は簡単に翻訳機能も情報も手に入りますが、それぞれ原文の意味合いをどうやって把握できるか。それが一番大変で大事ですね


──年間で何冊ぐらい翻訳していますか?

 

だいたい3、4冊です。

 

──じゃあ生活の中で翻訳業が占める時間は結構多いんですね。

 

ライブや音楽をすることは少なくなっていますね。生活するには翻訳業も必要です。やらなければ餓死するかもしれません。

 

──翻訳される本の内容自体を、ダワンさんが楽しみながらやっていらっしゃるのでしょうね。

 

はい。最近、作曲についての本も翻訳しました。一昨年は、BLに関する本も翻訳しましたね。編集者さんでもBLに関する知識がそんなに詳しくないことがある。私から女性の知り合いに頼んで、日本のBLについて少し調べてもらったりしました。読者から批判などがあまりなく幸いでした。


──今やっている翻訳のお仕事は?

 

最近では寺山修司の本を翻訳しました。寺山修司が50年前の言葉で書いていますから、私も50年前の言葉で翻訳したいと思いました。時代時代の言葉があるので。台湾では、寺山修司に興味を持つ人が増えたのは1980年代から1990年代ぐらいです。その頃は、台北電影節など民間の映画祭が生まれた頃でした。民間のフェスティバルによって、映画、戯曲や小劇場から寺山修司のことを知る機会が増えたということですね。

 

──ダワンさんを追ったドキュメンタリー映画、『台北抽搐 TPE TICS』(*)について聞かせてください。

*『台北抽搐 TPE TICS』フェイスブックページ:https://www.facebook.com/TPETics/

 

 

2011年から2014年ぐらいまで、監督である林婉玉が私を撮り続けました。2015年にプレミア上映された作品です。監督から打診があった時、直感的に、やるかやらないか返事しましたね。彼女は、私の生活を撮ったら面白いんじゃないかと記録し始めた。何かを感じたから、私もOKしました。


──DVDは日本語字幕もついたんですよね。

 

日本語字幕は中山大樹さんが担当してくれました。


──ご自身でおすすめしたい映画でしょうか?

 

林監督の作品として、おすすめできます。監督は、ドキュメンタリー映画『日常對話』に編集者として参加して、その作品も良い評価を受けています。

 

 

2018年2月3日、台北、先行一車にてインタビュー。

黃大旺氏の音源や映画『台北抽搐 TPE TICS』のDVDなどは、黃大旺氏と親交の深い先行一車で多く取り扱われる。他にも台湾で活動する個性的で面白い作家の作品を知ることのできるレコード店である。在庫状況などは直接店頭で確認を。


 

 台湾のサウンドアートやノイズミュージックのシーンを知る人なら、ダワン氏の名前を聞いたことがある人は多いだろう。インタビュー中にある通り、私はダワン氏を失聲祭で「ノイズミュージシャン」として知り、それから彼の活動には注目してきたつもりであったのだが、彼のフェイスブック等から発信される彼のその時々の最新活動は、カラオケの映像であったり、ひまわり学生運動の最中でコミカルなパフォーマンスをする動画だったり、はたまた彼の最新アルバム『妥銳歌本 Tourette s Songbook』では彼のチックを活かした作品を発表したりした。ちなみに、映画『台北抽搐 TPE TICS』は、その名の通り、チック障がいを持つ彼の日常を記録した作品である。

 アーティスト、もしくは、表現者の役割とはなんだろうか。思想や哲学を作品を介して世に出し、その強くまっすぐそびえ立つ信念や美を社会に提示することなのだろうか。一種スローガンのような意思表明を貫き、他の人々がよりかかることのできる支えのようなものなのだろうか。これまで私が生きるなかで知り得たアーティストや表現者と呼ばれる人たちは、業績や蓄積した作品群から一定の固く太い筋のようなものを誇り高く掲げており、また、私も、アーティストや表現者とはそうあるものだと思っていた。以前は。

 ダワン氏は、あるときはノイズミュージックを奏で、あるときはカラオケ、あるときはステージで得体の知れないパフォーマンスを繰り広げてきた。特に彼のカラオケやパフォーマンスはこれまでの「アート」にはなかなか見られなかった類のもので、どう評価していいものか完全にわからない。どう感想を言っていいのかサッパリわからない、けれども、それを観ることにより自分の常識を疑うようになった、疑うようになれたことは確かだ。

 ダワン氏は、時に人間の弱さを見せ、汚さを見せ、どろどろした灰汁のような部分を、ステージの下にいる私たちにあけっぴろげに見せてくる。特に”美しさ”を追求しているようには見えないダワン氏の表現が、自分の価値観のなかで、またこの世界全体の価値観のなかで、どう作用していくのか?また、ダワン氏は映画『台北抽搐 TPE TICS』において、自身のことをアーティストだとは思わないと答えている。

 彼の、まるでいつ爆発するか誰にもわからない不発弾のような危なっかしい表現は、私にとって、くだらない価値観や基準をとっぱらうことに大いに貢献している。

 

 

インタビュー・テキスト:山本佳奈子