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対コロナ期における中国─『観客は誰か?』密集音楽会66に寄せられた颜峻のテキストからの考察

 5月下旬から6月第1週目にかけて、中国ではライブ情報が続々と告知されていた。久しぶりのことだった。中国でオルタナティヴロックなどを扱うレーベル兵司(Maybe Mars)がバンドLonely Leary とBackspaceの中国国内ツアー情報をFacebookページに投稿したのは6月5日のことだった。(*1)また、同じく兵司所属のバンドChui Wan(吹万)も、全国ツアーの決定を6月8日に告知していた。(*2)しかしながらその直後、北京市で新たに多くのCovid-19感染者が出たことを受けて(*3)、6月18日時点、Lonely Leary とBackspaceの天津公演、大連公演はキャンセルとなった(*4)。事態が収束しないことを受けて、6月22日時点の情報では、さらに多くの公演がキャンセルとなっている(*5)。もう一息で音楽イベントが再開されそうだったところだが、しばらくまた、北京周辺から発信される音楽イベントの情報を知ることはなさそうである。(北京周辺の自分が知り得ないシーンで、音楽イベントがひっそりと非公開で開催されている可能性は否定できない。)

 

 

観客が自身で演奏するコンサート『密集音楽会66』の手法

 

 Covid-19の流行によりイベントが開催できなくなった北京で、峻(Yan Jun)が新しい手法によるコンサートを始めたことについては、前回の記事でも書いた(*6)。密集音楽会(miji concert)とは峻が主催し定期的に開催している小さなコンサート企画のシリーズ名称であり、ここ数年は彼のプライベートスタジオで開催されていた。プライベートスタジオである為、場所は公表されず、予約した者がメールを受け取り住所を知らされる仕組みである。小さなスタジオであるため、観客は最大でも20名ほどだった。観客はスナックや果物の持ち込みを歓迎され、ホストである峻からは茶が振舞われることもあった。Covid-19の流行により、2019年12月以降、観客を迎えた開催ができなかったのだが、2020年4月、峻は密集音楽会66の開催を発表した。

 

 66回目の密集音楽会は、これまでのように「音楽家やアーティストの演奏を、観客が聴く」ものではなく、「観客が演奏し、観客が聴く」ものである。音楽家やアーティストは作曲した作品の楽譜や演奏指示を提供し、それを観客が、自身で演奏し、自身で聴く、ということである。音楽家やアーティストによる楽譜や演奏指示が、4月5日より毎日Facebookグループに投稿された(*7)。初回の朱文博(Zhu WenBo)に始まり、最終回の袁志(Yuen CheeWai)まで、中国はもとより世界各地から総勢51名のアーティストが、それぞれ一つもしくは数点の作品を提供した。インターネット上で不特定多数に公開されているものであるため、実際にいくらの観客がここに存在したのかはわからないが、一部の観客は、これらの楽譜に沿って演奏した音を録音し、録音データを峻に送った。

 

 密集音楽会66で提供された作品から一部の概要を以下に紹介する。

 

一舟(Sun YiZhou)

『蝙蝠音 No.2 / Bat Music NO.2』(コウモリ音楽 No.2)

ある場所において複数のデバイスを用意し、グループ音声チャットを用いて会話を開始する。デバイス同士を近づけたり、スピーカー設定等も利用して、フィードバックを出す。フィードバックが音量の大小や空間、距離などによって変化するようすを確認しながら、咳をしてみたりして、家族や友人と遊ぶ。

 

思(Li WeiSi)

变换 / Transform』(変換)

A4サイズの紙(もしくはハサミで切ることのできる布やプラスチックバッグなど)とハサミを用意し、それを1cm×1cmの大きさの欠片に切り続ける。最初から最後までその過程を録音する。

 

袁志偉(Yuen CheeWai)

『几乎有什么/ Almost something』(ほぼ何かのような)

木製の机の上に紙と鉛筆と消しゴムを用意し、ゆっくりと筆圧をかけて自分の名前を書き、一度消し、次はその紙を机にテープで貼った上で、再度自分の耳を机に付けながら再度ゆっくりと筆圧をかけて自分の名前を書く。一回目に自分の名前を書くときに聴こえた音と、二回目のそれを、自分の脳内でミックスする。

 

 

 各音楽家やアーティストによる作品は、ほぼ一日に一作品または一作家ずつ、密集音楽会66(miji concert 66)のFacebookグループへ、峻の手によって投稿された。同時に、峻が運営しているレーベルSUBJAMのウェブサイトにも、記録としてPDFがアップロードされている(*8)。また、作品を実際に演奏してみた観客からの録音や、峻による演奏の録音は、bandcampに『miji concert 66 recordings』というタイトルでアルバムとしてまとめられている。

 

 

 そして、普段より密集音楽会の運営をサポートしており、幾度も密集音楽会で演奏している音楽家である朱文博は、密集音楽会66にラインナップされた作品すべてを演奏し記録することを5月上旬に発表し、そのアーカイヴは現在43作品がbandcampにて公開されている。

 

 

 ここまでで概ね、密集音楽会 66で何が行われていたのかを述べた。ここからは、密集音楽会66開催中に峻が発表したテキスト「Who are the audiences?」を通して、一般的な音楽コンサートとはズレていた密集音楽会 66がなぜ観客の主体性に注目していたのか、読み解いていきたい。

 

 また、密集音楽会 66に寄せられたほとんどの作品は、楽器演奏の技術を必要としていない。楽器を使用しない方法で音を奏でるタイプの作品が多い。作品を提供した音楽家やアーティストに関しても、既存する管楽器や弦楽器の熟練者ばかりではなく、非楽器奏者が多い。だからこそ、ここで考察する内容を音楽全般に当てはめようとすると矛盾を生む。しかしながらこの考察は、リズムやメロディ、フレーズなどを美しく調和的に編み上げる音楽では飽き足らず、「サウンド」「音」(*9)に集中し聴き続ける者たちが、これまで潜在的に考え続けてきたことなのではないかと予測する。

 

 

Who are the audiences? ─観客は誰か?─

 

 密集音楽会 66のFacebookグループにて5月7日、峻が投稿した約600語の英文テキストには「who are the audiences?」とタイトルが付されていた。自身も昔は観客であったことや、数年前のベルリンでの滞在制作時での経験、そしてこれまで立ち会ったコンサート中に観客が発した音をまとめ作品化したこと等をもとにしながら、観客と音楽家の境界が実にあやふやであることについて示している、というのが概要である(*10)。

 

 私は彼のこのテキストに大きく頷いた一人である。観客と音楽家の境界があやふやになってしまっているこの現状には少なくない人が気づいているはずだが、音楽が資本主義制度の中で金銭授受の習慣に沿って営まれている以上、やはり観客と音楽家を分け隔てるボーダーが必要になる。彼のテキストでは、そのボーダーを取り払うことが推奨される。つまりは、「観客」に対しての受け手という先入観を除き、「観客」の主体性や創造性を認めることである。いくつかの部分を取り上げつつ訳を付し、考察していきたい。

 

once one of my friends criticized my european colleagues’ works as “it’s too much depending on the manner and education of the audience. it’s not touched into our ground (不接地气).”  i agree partly that manner is not the real thing that connect audience and performers. also i’m against the idea of “taste” which sounds like successful financial investigation. but in another hand i don’t like the myth of been grounded or localized or whatever flavor for local audience. that means you have already fixed the audience as one solid object.

 

 

 前半で峻は、彼の仲間であるヨーロッパ出身のアーティストの作品を(中国で)見た友人が、”観客の作法や教育に大きく左右される作品だ。この土地(中国)にはそぐわない(「不接地气」)(*11)と批評した”としている。そして、部分的に理解できるとしながらも、”まるで、「成功するための金融動向調査」のような雰囲気の発想には反対する”としている。そして以下のように繋がる。

 

 私は、「その地域の観客にはその地域性や地方性や趣などがある」という神話は好きではない。これは、観客を立体物として見てしまっているということになるから。

 

 音楽家やアーティストに関しても、その地域性と作家性の関連を大いに求められたり認められたりすることはあるが、観客においても、多くの場合、同様に地域性で語られることが多い。特にポピュラー音楽のなかでも、流行する音楽においては、トレンドをつくるため、地域マーケティング調査をしたうえでの売り込みがなされたりする。しかし、よく想像を巡らして考えてみると、これは確かに観客という人物それぞれの個性や、それぞれの感覚を、乱暴に均してしまう行為である。観客は複数人の集まりであり(稀に一人しか観客がいなかったことや一人も観客がいなかったことも世界の多くの音楽の現場で起こっていることはもちろん知っているが)、それぞれが別の意思や意図、文脈、思想を持っている。

 

 百歩譲って、ファンを獲得することによりビジネスを回さなければならない流行音楽においては、トレンド作りとマーケティングのために観客をただの立体物として見ることは、ある程度必要な行為かもしれない。しかしながら、トレンドとは程遠い実験的な音楽や、リズムやメロディ、フレーズなどを編まない音楽、「サウンド」や「音」のコンサートや作品発表においても、うかつに観客の地域性が語られがちである。

 

 

アーティストは一般の人がやるよりも高いものを与えるべきか?

 

 中盤では、「観客」という立場のアイデンティティについても言及する。このテキストの核となる部分であるので、一部抜粋して拙訳を記載する。一部、日本語で読みやすくするために、意味を変えない程度に語句を補った。

 

before and during creating music i was and am an audience among the others. but not part of the concept of “the audience as certain identity”. an audience means the user of the music. and more or less the changer of the music. it’s possible to listen to any sound around. or listen to the music as if you are doing field recording instead of aesthetic activity. or just take a nap as the music is good for do so. some times you dance not because you love the music but because you are here for having fun. but you make the vibes good and you make the musicians play higher.

as a consumer audience always has rights to judge the music. and ask for refund in some case. as a product the artist always has the power to conquer the audience and give them something. in the romantic myth, artist is responsible for giving something higher than the ordinary people. but i prefer the older time, while the performer is always one of us. some times an artist, some times a farmer and neighbour. and audience at one moment performer another moment.

 音楽をつくり始める前も私は他の音楽家にとっての観客であったし、音楽をつくり始めてからも、私は他の音楽家にとっての観客である。しかしこれは「アイデンティティとしての観客」という概念ではなく、「音楽のユーザー」という意味である。また、観客は多かれ少なかれ音楽を変えてしまうことができる。(筆者注 *12)観客は、芸術的実践をする代わりにフィールドレコーディングをしているかのごとく、自分の周囲に現れるあらゆる音を(演奏の音とともに)聴くことができる。もしくは、音楽が居眠りに適しているなら昼寝をすることができるし、時には、その場に来たのは楽しむためだから、と、自分が好きではない音楽でも踊ってしまうこともあるだろう。踊る観客のバイブスは、音楽家に影響し、音楽家のプレイを上げていくだろう。

 観客は消費者として、いつも音楽をジャッジする権利を持っている。場合によっては、返金を申し出る。一方で、生産者としてのアーティストはいつも観客に対して征服する権限を持ち、観客に何らかを与える。ロマンチックな神話では、アーティストは、一般の人がやるよりも質の高いものを与える責任があるとされている。しかし、パフォーマーはいつでも我らの一員である、という考えを、私は昔から好んでいる。ある時はアーティスト、ある時は農家、ある時は隣人。そしてある瞬間は観客であった者が、ある瞬間はパフォーマーになる、という風に。

 

 

 

 私と同じく、リズムやメロディ、フレーズなどを編まない、「音」のコンサートを観たことのある観客は、ここで峻が言及したようなことをうっすらと頭の中で考えたことがあるのではないだろうか。アーティストと、観客の、境界線はどこにあるのか。私は、コンサートを鑑賞している最中に「この演奏は、この音楽家にしかできないことなのだろうか?」「ほぼ空白と非楽器の演奏であるが、この演奏家はプロで有名な音楽家だから、素人では出せない特別な音が出ているのだろうか?」などと疑問を持ったことがある。数年前までは、その音の特殊性にみる個性、また、その音自体に備わった特権や権威のようなものがあるのかもしれない、と、考えたのだが、今ではすっかり素人の演奏もベテラン音楽家の演奏も、両方を楽しめる自分になった。個人の体験として大きな影響を与えられたのは、那覇に在住した2015年から2019年に、あらゆる即興演奏のコンサートを観たことである。それは、小さな沖縄本島内であるからか、数少ない即興演奏家たちと観客には、いつのまにか境目がなくなっていて、これまで観客席にいた者が、次の月には身軽にステージに登場したりしていた。峻が表現したように、「ある瞬間は観客であった者が、ある瞬間はパフォーマーになる」というサイクルが実現していたのである。 

 

 また、これはポピュラー音楽における流行音楽、すなわちポップスやロック、バンド音楽においても、同じことが言えるだろう。趣味と職業、アマとプロ。これらのレベル分けは何によって行われているのか。観客という立場にあたる者が分けるのか、当事者が自己設定し区分することなのか、それともメディアや世間が分けるのだろうか。

 

 さらに、観客である我々は大きな問いに向かわねばならない。観客である私たちは、私たちに音楽を聴かせる音楽家やアーティストに、何を求めているのだろう。音楽家やアーティストと、我々観客のあいだにくっきりと境界を引くことは、受動する姿勢を固め、創造的な行為のチャンスや責任を向こう側に完全委任してしまうことにもなりかねない。しかしながら同時に、峻が言及するように、観客の反応は得てして音楽家を通じてその音楽を変えてしまうこともできる。もしくは、観客は演奏している音楽家の意思と関係なく、その場にある音すべてを脳内でミックスダウンしまとめて聴取することができる。音楽の主体性は、たとえ時間を司っているのが音楽家だったとしても、実は観客のほうにあるのかもしれない。

 

 

職業でもアイデンティティでもない、創造的な生き方として

 

 その次の段で、峻はベルリンでの経験を紹介しながら、さらにこのように述べる。

when i did residency in berlin i heard “too many artists in here. your audiences are only artists.” my understanding is that it indicating a further need. in berlin there are too few artists. not too many. the relationship between artist and audience is not same as product and market. everybody should be artist in a way. not the special one. not a job or identity. but just live in a creative way. then we will have a concert performed by and for both creative people… ok this is my answer to peter handke’s “publikumbeschimpfung”.

ベルリンに滞在していた時、「ここにはアーティストが多すぎるから、君の演奏を観に来るのはアーティストばかりだ」と言われたことがある。私の理解では、そういったことが言われるのなら、アーティストがまだまだ足りないということ。ベルリンにはアーティストが少なすぎる。多すぎない。アーティストと観客の関係は、製品と市場の関係とは違う。ある意味で誰もがアーティストであるべき。特別なことではない。そして(アーティストであるということは)職業やアイデンティティではない。ただ創造的な方法で生きるということ。そして我々は、観客でもアーティストでもある創造的な人々による、創造的な人々のための、コンサートを開催する……。OK、これが、ペーター・ハントケによる『観客罵倒』に対する、私の答えだ。

 

 日本の多くの小規模な音楽コンサートも、よくこの状況になる。見渡してみれば、観客のほとんどが、音楽家やアーティストであり、コミュニティがタコツボ化してしまう。この状況は、一般的に悪しき事態として嘆かれる。しかし、明るく考えれば、ある意味ではファンビジネスの段階を越えた非常に成熟した状態と言えるのかもしれない。ある日は今日の音楽家が観客で、ある日は今日の観客が音楽家となり、その立場を軽々と入れ替わることができる。ビジネスの面を除けば、このような状況はとても豊かであることのはずなのに、どうして私たちはついついこれを「観客の不足」や「観客の新規開拓ができていない」として嘆いてしまうのだろうか。多くの観客に聴かせることがそもそも望まれない特異な音楽を対象とする場合は、その観客とはいったい誰なのか、ただ観客が増えればいいものなのかどうなのか、考えるべきかもしれない。ファンビジネスとしての音楽と、創造的時間を共有するための音楽とでは、観客の定義はしっかりと区別される必要があるだろう。

 

 

まとめ 民俗音楽化する音楽

 

 密集音楽会66の開催手法と、それに添えられた峻によるテキスト「who are the audiences?」を紹介した。観客とアーティストを行ったり来たりすることを推奨する密集音楽会は、誰もが音楽やサウンド、音に対する実験を実践できる受け皿であるしプラットフォームとも呼べる。

 

 そういえば筆者は、数年前の密集音楽会において、音楽家ではなく観客というアイデンティティを持っていたのにも関わらず、演奏させられた経験を持つ。『密集音楽会』の運営サポートをし、また、自身も音楽家として活動する朱文博の作曲作品を演奏する演奏者として参加したのだった。電気のスイッチを指示通りにオン・オフするのみの演奏で、実に簡単でありながら、演奏する側を珍しく経験すると、会場全体の音がまったく違って聴こえたのだった。

 

 そのような、立場の変化による気づきは、観客にとって一番単純かつ大きな発見となるはずである。今回の密集音楽会 66により、普段演奏しない素人が、自分が聴くための音を自分で奏でるということで、今後どのような効果が生まれてくるのだろうか。私もこれからいくつかの作品を演奏し、その音を聴くという行為を通して実験してみたい。

 

 また、朱文博は自身の別のプロジェクトとして、2019年7月から「素人による演奏の録音」を募集している。後に彼が主宰するレーベル燥眠夜(Zoomin’ Night)からアルバムとしてリリースされるらしいが、こちらの進捗にも期待したい。(*13)

 

 最後に、一つ問題点も挙げておく。観客と音楽家の境界をこのように曖昧にし区別を設けず、観客へ主体性と創造性を持たせることが進むと、音楽のなかにおける金銭授受のサイクルや音楽ビジネスが立ち行かなくなるだろう。すでに観客とパフォーマーは常時入れ替わったり両方が両方を兼ねる状況が多く、音楽ビジネスは立ち行かなくなっているとも言えるかもしれない。資本主義制度の中でうまく折り合いをつけるのか、それとも、商業音楽と袂を分け民俗音楽化させていくのか。それもまた、パフォーマーの側ではなく、観客それぞれがその主体性により選び取っていくことなのかもしれない。

 


 

*1 Maybe Mars,  Facebook, 2020年6月5日投稿 https://www.facebook.com/maybemarslabel/posts/3021381187952584

*2 Chui Wan, Facebook, 2020年6月8日投稿 https://www.facebook.com/chuiwanband/posts/3073836576066029

*3 BBC NEWS JAPAN, 北京で新たに100人の感染者、規制強化 ロックダウン拡大, 2020年6月16日投稿 https://www.bbc.com/japanese/53059357

*4 兵司唱片, WeChat, 2020年6月18日投稿 https://mp.weixin.qq.com/s/cm_RcgF3CGWEvpqm_Zirew

*5 兵司唱片, WeChat, 2020年6月22日投稿 https://mp.weixin.qq.com/s/QTx7uOtkHecbIcEwsY9MiA

*6 Offshore, 対コロナ期における中国─回復前夜の状況・観客による孤独の実践, 2020年5月4日投稿 https://offshore-mcc.net/column/863/

*7 密集音楽会66, Facebookグループ https://www.facebook.com/groups/miji66/

*8 SUBJAM, 密集音会 miji concert 66, 2020年4月5日投稿 https://www.subjam.org/archives/5117

*9 峻は、Offshoreで以前インタビューした際に、「何をやっている人だと言われたいか?」と肩書きについて質問したときに「音楽を演奏する人。ただ、その音楽には音しかない。」と答えている。 https://offshore-mcc.net/interview/492/

*10 Miji Concert 66 密集音会 66, Facebookグループ, 2020年5月7日投稿 https://www.facebook.com/groups/miji66/permalink/2894545317326124/

*11 「不接地气」という語句は英文テキスト内にひとつだけ中国語で記載されている。「接地气」が指す意味については『日中語彙研究 第5号』(愛知大学中日大辞典編纂所, 2015)が詳しい。https://leo.aichi-u.ac.jp/~jiten/word-vol5.html

*12 訳を省略した段において、峻は自身が採取した、観客がコンサート中に発した小さな音(大きな音やいびきを含む)をまとめた作品を2つ紹介している。そのひとつは、上記に埋め込んでいるbandcamp作品『From Audience』である。

*13 燥眠夜, WeChat, 想做一素人合, 2019年7月18日投稿 https://mp.weixin.qq.com/s/1plmLkY8Wtrj9hEy96aBLw