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第3回「中国のオルタナティブな音楽文化の概況(北京を中心に)」後編-鑑賞についての変遷と特徴

文:山本佳奈子

※この記事はTell the Truthにも同時掲載しています。

 

ライブハウス文化から音楽フェスへの大規模化

中国のオルタナティブな音楽文化におけるCOVID-19の影響を調査する前に、まずは概況を見渡すこととした。前編記事では、改革開放期の中国ロック誕生から現在まで、主に音源聴取方法に視点を置き変遷と特徴を解説した。中国の「独立音楽」は大衆に向けても積極的にアピールしており、主流への対抗の意味も含む日本の「インディーズ」とは違った様相になっていることも紹介した。後編記事においては、音楽を聴くうえで重要な行為である鑑賞について、つまりはライブハウスや音楽フェスの状況を見ておきたい。なお、後編記事においても北京を中心に見ていくが、もちろん中国各地域にはそれぞれの特色ある独立音楽文化があり、それらを無視しているわけではない。まずはライブハウス数が多く音楽フェス開催数も多い首都北京を見ることが、中国全体を知る第一歩となるはずだ。


ちなみにライブハウスという言葉は日本から生まれた造語であるが、中国でも『乐队的夏天(THE BIG BAND)』[1]以降は「LiveHouse」と表記され、多くの人に知られる言葉となった。日本では「さまざまな音楽空間が便宜上ライブハウスと呼ばれているが、「ロック音楽の演奏空間」というライブハウスに対する一般的な認識」[2]がある。このイメージが、そのまま中国のライブハウスにも適用されていると考えて間違いない。音楽ライブを近距離で鑑賞することに非常に適した空間であることも定義として挙げられるが、距離については観客それぞれの感覚に個人差がある。絶対的な比較対象は、大型アリーナ等での大規模コンサートである。ともすれば、キャパシティ1000人規模のライブ空間もライブハウスと呼べることとなる。また、音楽フェスティバルは数万人規模の観客が訪れる大規模イベントである。昨今の中国では数万人規模の音楽フェスが年中各地で開催されている。

北京ライブハウス文化の黎明期から、音楽フェスの流行へ。この記事でも時代を順に追って解説することで、オルタナティブであるはずの「独立音楽」がどのような道を経て大衆化あるいは大規模化してきたかを見ていきたい。

 

1990年代 -北京ライブハウス黎明期

1989年天安門事件に向かうまで、北京では学生運動の盛り上がりとともにロック音楽が隆盛し、バンドが増え、ロック音楽のパーティーが盛んに開かれた。天安門事件直後は緊縮状態となるが、当時既に活躍していた崔健(Cui Jian)、窦唯(Dou Wei)、バンド唐朝(Tang Dynasty)ら有名な音楽家の一部は活動を続け、少し経つとまた大きなコンサートを開催するようになる。天安門事件以降解散してしまったバンドも多かったが、アンダーグラウンドに活動を続けるバンドもまた多く生まれた。1991年、音楽家でもあった李季(Li Ji)は、北京で最初のライブハウス「鈦金実況演奏室」をつくったと言われている。翌年には移転し「幸福倶楽部」と名を改めた[3]。ちなみに、爆風スランプのドラマーとして日本でデビューしたファンキー末吉氏はちょうどこの頃、1990年に中国へ渡りバンド黑豹(Black Panther)に参加した。その後も中国であらゆる音楽活動を行なっている[4]


1993年頃には全国でバンドが増え地下活動としてのパーティーも多く行われたようだが(ある説では当時国内に400バンド以上もいたと言う)、バンドで生きていくことはできたのはひとにぎりだった。また、バンドや音楽ファンは安らぎや娯楽を求めてライブに足を運んだが、それは一般社会とは交わることのないコミュニティだった。

 

パンクバンドを多く輩出したライブハウス「嚎叫俱乐部(Scream Club)」は1997年頃に五道口エリアにオープンした。北京大学や清華大学等の名門大学が近く、外国人留学生も多く、地下取引された打口カセットや打口CD[5]の店舗もあったエリアである。当初はパンクやメタル音楽ファンのためのバーとしてオープンしておりライブは週1回程度で、ライブハウスとは名乗ってはいなかった。ライブを重ねるうちに、78平米で約100人キャパシティの空間に200人もの人が押し寄せるようになった、と、オーナーは回想録で記述している[6]。嚎叫俱乐部には日本からバンドQP-CRAZY等も演奏に訪れている。また2001年に日本でロリータ18号らとともに全国ツアーを行なった女性パンクバンド挂在盒子上(Hang On The Box)も嚎叫俱乐部に出演しており、彼女らの当時のマネージャーは現地在住の日本出身者である[7]。嚎叫俱乐部はレーベル「嚎叫唱片(Scream Records)」を設立し、同ライブハウスで育ったバンドの音源リリースをサポートした。そして2001年頃、レーベル運営に完全に移行した。嚎叫俱乐部がパンクシーンを築いた1990年代、北京市東城区には「忙蜂酒吧(Busy Bee Cafe)」というバーもあり、ここでも多くのバンドがライブを重ねた。

 

ライブハウスD-22(2011年筆者撮影)

 

2000年代 -SARS後のライブハウス「愚公移山」と「D-22」

2003年から2004年にかけて、香港および中国大陸にてSARSが蔓延した。その頃の記憶を、当時ロック音楽批評家だった颜峻(Yan Jun)は、筆者が2014年に行なった取材に以下のように答えた。

「あのとき、みんな活動を止めた。数ヶ月間、ライブもなかった。みんな外に出られないし、感染が怖いから外に出なかった。当時、仲良かったバンドはみんな活動停止したね。一部のバンドは、それで本当にバンドを辞めちゃったし、一部は戻ってきた。Tongue(筆者注※バンド舌头のこと)みたいに、7、8年で戻ってきたバンドもいるし、徐々に戻ってきたバンドもいる。」[8]

 

疫病が蔓延した当時の北京や中国各地がどのような状況だったのか、SARSが音楽に対して与えた影響とは具体的にどのようなものだったのかは今後さらに調査することとしたい。嚎叫俱乐部を中心に巻き起こった1990年代北京パンクシーンがいったん落ち着き、SARS流行が過ぎ去った後、現在の中国独立音楽シーンにもつながる重要なライブハウスが賑わい始めた。2000年代以降はライブハウスと名乗る空間も現れライブハウス文化が醸成されていくが、ここでは、著名な2つに注目したい。「愚公移山(YuGongYiShan)」と「D-22」である。どちらも既に閉店しているが、国外から来訪する音楽家の公演会場ともなり、音楽による国際交流の拠点でもあった。


愚公移山は、ドイツ留学経験のある吕志强(Lu ZhiQiang)によって創立されたライブハウスである[9]。2004年から2007年までは、外国人がよく訪れるバーが連なるエリア三里屯で営業し、2007年からは東城区に位置する北京旧城大門内で営業した。約850平米の空間で、500〜700名のキャパシティを持つ中規模のライブハウス兼クラブだった。海外のバンドやDJが毎週末あるいは毎日のように訪れ、ロックからパンク、エレクトロ、テクノにHIPHOPにハウスまで、様々な音楽ジャンルの公演が行われた。2018年、消防法の問題に加え、興行許可取得がなされていなかったこと等が問題となり、閉店を余儀なくされた。


D-22は、嚎叫俱乐部があった五道口エリアで2006年5月にオープンした。バーやクラブ、ライブを観ることのできる空間が既に周辺に多く、音楽空間として決して先駆的な存在ではなかったが、今も多くの者がD-22を懐古する。オーナーは、ポスト・パンクやオルタナティヴ・ロック系のバンドの音源をリリースするレーベル「兵马司(Maybe Mars)」のオーナーでもあり、北京大学経済学部教授でもあるアメリカ出身者、マイケル・ペティス氏だった。吹き抜けになった2階も含めると約200人ほどが収容でき、壁にはこれまで出演したあらゆるバンドの写真が飾ってあった。乐队的夏天に登場したバンドでは刺猬(Hedgehog)、Joyside、后海大鲨鱼(Queen Sea Big Shark)、Carsick Cars等がこのD-22のステージを何度も踏んだ。レーベル兵马司との連携もあり、D-22で育ったバンドの多くはアメリカやヨーロッパでレコーディングし、現地でツアーを敢行した。周辺の大学生や若者から人気を得たライブハウスだったが、独立音楽がじわじわ盛り上がりつつあった2012年、たった6年間の営業に幕を閉じた。「2011年より北京の音楽シーンにおいてもっと違うことをやりたくなっていたから、閉店することは決めていた」こと、そして「2012年は中国においてかなり(政治的に)敏感な年になりそうだから、物件オーナーから予定を早めて閉店するよう頼まれていて」と、ペティス氏はウェブマガジンPangbianrでのインタビューで語っている[10]。後述するが、2011年前後は大型音楽フェスが流行の兆しを見せた頃で、バンドにも客がつき、D-22にも客がよく入るようになっていた。同インタビューでペティス氏は「D-22が満員になっていることは、音楽家が集客できるようになったということで単純に幸せではあるが、正直なところその場にいるのは嫌だ」とも言う。D-22の閉店後、後継となるライブハウスxp(小萍)がオープンした。より観客が少なく実験的な音楽表現を行う音楽家の拠点となったが、2015年、たった約3年間の営業の後、様々な原因が重なり閉店した。

 

ライブハウスxp(2014年筆者撮影)

 

2010年代中期〜当局からの国外音楽家招聘公演禁止令

xp関係者への取材によると、当局から国外音楽家招聘公演を禁止されたことが、ライブハウスの存続に大いに影響していたようである。当時北京では国外から来訪した音楽家のライブが盛んで、毎日どこかで中国ツアーにやってきた音楽家による演奏を観ることができたほどである。大きなライブハウスでの1000人規模の公演から、十数人規模の草の根交流まで、様々なレベルで多彩な公演が開催されていた。2014年、日本のバンドAcid Mothers TempleやBorisの公演が禁止された頃[11]から、風向きが変わってくる。翌年にはAcid Mothers Templeの河端一とKK Nullによる中国ツアーも禁止され[12]、中国のSNS上では真偽のわからない噂が一枚の画像とともに話題になった。何者かが、特にAcid Mothers Templeの河端一を危険人物だと見立てて当局へ密告書状を送ったのだという。画像が示す書状には、「ポルノグラフィや危険思想を流布する人物である可能性があるから公演を許さないでほしい」という旨の嘆願が書かれていた。

 

それ以降、Acid Mothers Templeや河端一ほどの知名度を持たない国外からの音楽家も、軒並み公演が禁止される事態が発生した。特に日本からの音楽家を招聘する公演の取り締まりは厳しかった。数十人しか集客することのできない草の根招聘公演さえも取り締まられ、小さなライブハウスや個人の企画者は追い込まれていく。それでも国外の音楽家が中国でツアーや公演を行うには、正式に興行ビザを得て入国しなければならないため、招聘元が信用のある企業や団体でなければならない。ビジネスとして成立していなければならない。大手ライブハウスや大資本に頼らない、もしくは少数派音楽で採算が取れないからこそ個人単位で企画される草の根交流ライブは、これ以降開催告知が自粛され、よりアンダーグラウンド化していくこととなった。


筆者は2015年4月、東京を中心に組織されたノイズや即興演奏手法による音楽家コレクティブ「Multiple Tap」の中国ツアーに帯同しており、北京、杭州、上海と巡る中で公演禁止の報に追いかけられた[13]。杭州では「不特定多数に見せる興行ではない」ことを証明するため、急遽会場が楽器店に変更となり、音楽家は「試奏していて」観客は「勝手にそれを眺めている」というカモフラージュが行われた。上海では美術館で公演予定だったが上海到着後すぐ公演キャンセルが確定し、上海現地の企画者や音楽家たちの機敏な手配によって、とあるカフェに会場を移し、シークレット公演が開催された。来場を予定していた観客にはSNSアプリWeChatの個別メッセージにて会場変更が知らされた[14]。その頃、Multiple Tap中国ツアーを手配した颜峻(Yan Jun)は、「中国の文化局は若い公務員を雇ってるかもしれない。彼らはダサくなんかなくて、ハードコアやパンクが何か知っていて、SNSでそういう企画者をフォローしてるんじゃないか」[15]とユーモアを込めて惨状を嘆いている。


xpに話を戻すと、2015年3月頃に国外からの音楽家による公演を禁止され、興行許可や消防法をクリアしていないことについても注意を受けた。興行ではないとやり過ごすため、約1ヶ月間、開催予定していたライブをすべて無料で行い、決定していた招聘公演も中止した。同時に、経営不振やスタッフ不足等の問題も噴出し、まもなく閉店した。

 

2010年代〜現在 -淘汰された他の小さなライブハウスと、現存するライブハウス

他にも、日本の音楽レーベル「バッドニュース」が中国で創立したライブハウス「MAO」[16]や、北京市東城区に位置していた「2Kolegas」等もD-22や愚公移山と同時期の音楽文化を支えていた。2014年以降MAOは中国資本となり、現在では中国の音楽産業における大手グループ企業「太合音乐集团」(TAIHE MUSIC GROUP)の傘下にある。新生MAOは数年間をかけて全国に出店し、現在は8都市にチェーン展開している。バンドツアーは、この8都市のMAOを巡回すれば成立するという仕組みだ。バッドニュース時代は毛沢東肖像をあしらったロゴマークだったが、現在はMusician、Audiance、Organizerの頭文字を取ったロゴに一新。北京市五棵松にて約900平米の空間で営業している。2Kolegasは、たった200人ほどのキャパシティでありながらも大きな庭があり開放的で、バーベキューもできるパブ形式のライブハウスだった。2Kolegasも2014年、15年間の営業に幕を閉じた。引き金は、同ライブハウスでのレゲエパーティーに来場していた者が、マリファナ吸引で逮捕されたことだった[17]


D-22や愚公移山によって発展したライブハウス文化は途絶えず、現在も北京にはライブハウスが存在するが、非常に少ない。ただし日本のライブハウス数こそが世界的に見て異常に多いということも頭に入れておきたい。北京市は東京都の倍以上の人口を擁するが、営業が活発で代表的なライブハウスを挙げるとすると先に挙げたMAOに加えて次の4軒程度である[18]。乐队的夏天に出演したバンドJoysideのベーシストが共同オーナーを務める「SCHOOL」は、約200人ほどのキャパシティでパンクやオルタナティヴ・ロック、ハードコアやノイズなどを中心にライブイベントを開催している。キャパシティ500〜800人の「疆进酒(OMNI SPACE)」やキャパシティ約1000人の「糖果(Tango)」、倉庫をリノベーションした「乐空间(Yue Space)」などがある。また、アート界隈でよく用いられる「オルタナティブスペース」という呼称が似合う空間もある。音楽家me:moが北京で運営する「fRUITYSPACE」は、月に数回音楽ライブが開催され、簡単な音響設備も導入されている。しかし前衛的な音楽分野に限られていること、また映画上映会や朗読会、展覧会等音楽以外のイベントも定期的に開催されていることを鑑みて、オルタナティブスペースとしての機能が強いと整理する。


ただし、どのライブハウスも突然やってくる当局からの降って湧いたような取り締まりに耐えることができるかどうか、先が見えない。安定した経営には、大きな資本と当局との調整手腕が必須である。興行許可を取れず消防法のクリアも難しい小さなスペースが淘汰され大箱に偏りつつある現状は、上述した国外音楽家による公演徹底取り締まりの余韻とも言える。

 

SCHOOL(2016年筆者撮影)

 

中国の2大音楽フェスティバル

ライブハウス以外にもバンドや音楽家にとってのパフォーマンス発表の場所はあり、現代中国において無視できないのが屋外型音楽フェスティバルの流行と大規模化である。小規模なライブハウスが次々と取り締まられる少し前から、中国では音楽フェスが急速に増えている。そこで、ここからは音楽フェスについて解説するが、有名で観客数が多く開催歴の長い音楽フェス2つに注目する。「迷笛音楽節(MIDI Festival)」と、「草莓音楽節(Strawberry Music Festival)」である。再び時代を遡り、これらの誕生から見ていくこととしたい。

 

大型音楽フェスの草分け「迷笛音楽節」

六四天安門事件後の中国ロック音楽における謹慎ムードが落ち着いた1993年、中国で初のポピュラー音楽学校である「迷笛音楽学校(MIDI School of Music)」が開校した。楽器演奏や音響、音楽制作等が学べる3年制の専門学校である。2000年、迷笛音楽学校は校内で初めての音楽フェス「迷笛音楽節」を開催した。2日間で30組のバンドが参加し、1日に1000人を超える観客が来た[19]。徐々に規模を拡大し学外の公園や広場を会場とするようになり、国内のバンドやDJを中心にブッキングした。バンド音楽だけではなく、電子音楽ステージやDJ、HIPHOPステージを2006年頃から取り入れた。2009年の第10回目には、北京を出て他の地方でも開催されるようになった。

 

MIDI Festival

 迷笛音楽節(2011年筆者撮影)

 

最大手独立音楽レーベル摩登天空(Modern Sky)が主催する「草莓音楽節」


1991年に大学を卒業した沈黎晖(Shen LiHui)は、印刷会社を創業し軌道にのせ、1997年に独立音楽レーベル摩登天空を立ち上げた[20]。乐队的夏天にも登場した新裤子(New Pants)、重塑雕像的权利(Re-Tros)、后海大鲨鱼などあらゆる中国の独立系ロックバンド、音楽家と契約し、独立音楽最大手のレーベルとなった。2007年、摩登天空音楽節(Modern Sky Festival)を年1回の音楽フェスとしてスタートさせ、2009年にはより若者へターゲットを絞った音楽フェス草莓音楽節を春の連休時期に合わせて開催し始めた。日本のフジロックやサマソニと同じく、複数ステージが同時進行する。当初は北京で開催し、徐々に上海や武漢、西安、成都など他の都市にも巡回するようになった。2019年からは杭州、北京、西安、広州、深圳などの大都市のみならず、長沙、塩城、濰坊、貴陽、蘭州、昆明、海南などの地方都市でも開催した。各都市での開催を1回とカウントすると、2009年から2020年までの12年間で、合計100回開催したこととなる[21]

草莓音楽節(2011年筆者撮影)

 

音楽フェスの流行と大規模化

2013年に北京と上海で3日間開催された草莓音楽節の動員数は24万人(北京15万人、上海9万人)、先に紹介した迷笛音楽節については12万人を動員した。当時はどちらも春連休に開催していた音楽フェスであり、合わせて計36万人もの観衆が音楽フェスで休暇を過ごしたこととなる[22]。筆者は2011年と2016年に北京で開催された草莓音楽節に訪れた。来場している観客は20代前半ぐらいの若者が多い。2011年も2016年も一つのフェス会場に約5〜10ステージが組まれていたが、どのステージも観客で埋まっていた。もちろんステージに出演するのは摩登天空に所属しているバンドや音楽家が多いが、他のレーベル、例えば兵马司のバンドも出演するし、ポップスの窦靖童(Leah Dou)、韓国アイドルも出演していた。欧米や香港、台湾、日本等からの国外アーティストも出演するが、全出演者のなかで1、2割程度である。フリーマーケットや飲食屋台も充実しており、音楽に明るくない人も、オルタナティブな音楽を好む玄人趣味の人も、あらゆる嗜好に寄り添うことが可能な音楽フェスとなっていた。また、草莓音楽節めがけて訪れた大観衆の海を目にすると、日本と圧倒的に人口が違うという周知の事実を思い知らされる。前編では「現在 -CDの衰退およびその他の物理メディア」の項にてバンド重塑雕像的权利が2009年から2017年までアルバムをリリースせずライブツアーやフェスの出演に注力していたことに言及した。音楽フェスの流行と大規模化が、バンド活動の主軸を音楽制作よりもライブに移行させたということになる。そして他にも多数、他社主催による音楽フェスが中国には存在する。


ちなみに中国の音楽フェスは収入源をチケット収入のみとしない。広告、ライブ配信、フェス会場内で開催されるクラフトマーケットやアミューズメントエリアの収入も、重要な収入源として計上される。

 

草莓音楽節(2016年筆者撮影)

 

オルタナティブ(ライブハウス)と大衆文化(音楽フェス)の両輪

D-22およびレーベル兵马司の創始者であるペティス氏の発言を振り返る。2006年にオープンしたD-22は、2011年には見切りをつけ、大勢の観客を得た音楽家たちを祝福しつつもそれ自体に興味を持たず、後継となるライブハウスxpを立ち上げ、より実験的な音楽実践を試行したが、当局の取り締まりやいくつかの要因が重なり閉店を余儀なくされた。

一方、沈黎晖によって創立された最大手独立音楽レーベル摩登天空は、独立音楽シーンの渦中にいる多くのバンドと契約を結び、2007年には音楽フェスを主催し始め、契約バンドとフェスをセットで全国都市に巡回させた。2009年から迷笛音楽節が規模拡大し多都市で開催する中、摩登天空による草莓音楽節もブランディングに成功し、独立音楽を聴く層が全国で一気に増加し、年中どこかで数万人規模の音楽フェスが行われるようになった。


D-22がまだ存在していた2010年頃、バンドCarsick Carsや刺猬は、草莓音楽節ではトリ前や大トリを飾り名を上げはじめながらもD-22に出演し続けていた。D-22では100人程度の前でライブを行なっているオルタナティブなバンドや音楽家が、同時に大規模音楽フェスでは数千人の観客を前に1年に何度も各地で演奏する。オルタナティブ文化(ライブハウス)と大衆流行文化(音楽フェス)の両輪が同時展開していたのが2010年代頃の独立音楽である。前編記事では動画番組『乐队的夏天』を例に出し大衆に向けて積極的に発信される独立音楽について言及したが、この頃から既に独立音楽は大衆に向いており且つ受け入れられていた。そして当局の規制によって小規模ライブハウスが減少したことから、「オルタナティブに小規模で続ける」ことを選び難い状況にもなっている。

 

巨大資本のもとでも成立する「独立音楽」

ここで日本の我々は「それでは摩登天空は”独立”音楽レーベルと言えるのか」「大衆に向いた音楽に独立性はあるのか」という疑問を持つ。日本でもメジャーとインディーの境界、特に精神性や思想がときたま議論となる。摩登天空を日本風に説明すると、メジャーの販路を持ちつつ音楽家には独立性を担保させる「メジャーインディー」レーベルと言えるかもしれない。摩登天空に所属し音楽フェスにも多々登場する著名なバンド重塑雕像的权利や万能青年旅店、舌头(Tongue)等は、彼らの発表する音楽から察するに、音楽マーケットの需要から逆算した音楽制作はしていない。前編記事冒頭で紹介した乐队的夏天においても、重塑雕像的权利は彼らの音楽性そのままで登場し、大手企業がスポンサーに名を連ねる番組のポップな雰囲気には迎合しなかった。主流音楽とはやはり一線を画するものであり、音楽そのもの自体においては十分に独立していると言えるだろう。


また、昨今中国では大企業により中小規模の音楽レーベルやブランドが続々と買収されている。2007年創立のレーベル兵马司は2017年、太合音乐集团(TAIHE MUSIC GROUP)に買収された。太合は他にも武漢のライブハウスVOXやライブハウスMAOを傘下に収めた。オルタナティブな音楽実践を積み上げてきたレーベルにライブハウス、そしてチケッティング業務や版権処理、ライブ配信、マネジメント等それぞれに特化したブランドを傘下に集め、音楽にまつわる事業がすべて太合グループ内で完結する仕組みになっている。ただし、兵马司に所属しているCarsick Carsや吹万(ChuiWan)、Lonely Learyなどは彼らのオルタナティブな音楽性を一切変えていない。むしろ、これまでは大衆受けしなかった彼らの音楽が、太合グループの強力なバックアップにより広く拡散され、中国独立音楽の多様化に一助を添えているとも言える。

 

総まとめ -政治や社会、規制に揉まれた者たちのたくましさ

中国のオルタナティブな音楽文化の一部である「独立音楽」の変遷と特徴を、聴取方法と鑑賞の視点から見てきた。たった約40年間の歴史ではあるが、政治や社会、音楽メディアの移行にかなりの影響を受け、その規制や環境にあわせて必然的な淘汰が繰り返され、特徴が表れた。音源聴取においては、欧米ポピュラー音楽が地下取引の打口で浸透し、インターネット共有に取り変わった後はストリーミングまでめまぐるしいスピードだった。レコード店でのジャンル分けされた棚を経験しなかったことが日本と大きく異なり、そのせいか多様なジャンルが受け入れられている。


ライブハウスにおいては「老舗」が既に存在せず、取り締まりにより小規模なライブハウスが苦境に立たされ、同時に音楽フェスが流行増加し、独立音楽家たちも音楽フェスにパフォーマンスの場と収益を求めるようになった。音楽フェスに来場する大衆がフェス会場で多様な音楽ジャンルをそのまま受け入れているのは、ジャンル概念が希薄であることも要因かもしれない。そして巨大資本により独立音楽レーベルが買収されても、そのレーベルが生み出す音楽はポップ志向に傾く様子はない。


COVID-19の出現以降、中国では都市封鎖や防疫アプリ導入が徹底され、日本の防疫対策と比べれば圧倒的にウイルスの蔓延を封じ込めてきた。市中感染は極めて減少し、2019年初夏以降音楽ライブも日常に戻りつつあった。しかし2021年1月頃、中国の一部地域で感染者が増え始め第二波を迎えた。北京ではそれにともないライブのキャンセルや延期がいくつか報じられたが、春節を過ぎた今、やはり感染者数は著しく増加することなく、第二波の押さえ込みはまもなく完了しそうな様子である。とはいえ、この一年で閉店したライブハウスはいくつもあるし、昨年は多くの音楽フェスが開催中止となった。大規模化し大衆のもとに届けられた中国独立音楽は、COVID-19以降どのような道を辿るのだろうか。日本から中国の音楽関係者たちの動向を見ていると、焦りや悲壮感が相対的に小さいようにも感じる。COVID-19以前から政治や社会に翻弄されいつでも規制や中止の危機にさらされてきた独立音楽を支える者たちのたくましさが、日本から見ると非常に落ち着いた態度に見えてしまうということかもしれない。

 

1 ^ 動画番組『乐队的夏天』については前編記事参照。

2 ^ 宮入恭平『ライブハウス文化論』青弓社、2008年、19p

3 ^ 颜峻「铁血或盗汗-追忆十年摇滚」『中国摇滚手册』重庆出版集团图书发行公司、2006年、357p

4 ^ 「ファンキー末吉とその仲間達のひとりごと」最終閲覧日 2021年1月13日、 https://www.funkycorp.jp/funky/profile.html

5 ^ 打口(Dakou)については前編記事参照。

6 ^ 吕玻「嚎叫俱乐部与北京朋克的故事」『中国摇滚手册』重庆出版集团图书发行公司、2006年、384p

7 ^ WAVE UNIZON, Kanako Yamamoto 「Vol.4対談・日本と中国、台湾を音楽で繋ぐ寺尾ブッタさんに聞く、中国にハマった当時のこと」WAVE UNIZON、2019年8月8日 https://www.wave-unizon.com/ymt04-201908/

8 ^ 山本佳奈子「Yan Junの過去と変化:Yan Junインタビュー」Offshore、2015年1月3日 https://offshore-mcc.net/interview/492/

9 ^ 张依依「愚公移山“漂流” 15 年,北京最老牌 live house 会在哪里继续?」好奇心日报、2019年3月31日 https://mp.weixin.qq.com/s/8VK3G015MdBUimQLEQRwtw

10 ^ Josh Feola「Michael Pettis on the End of D-22/终极线报:Michael Pettis在D-22的最后时刻」pangbianr、2012年1月4日 http://pangbianr.com/michael-pettis-on-the-end-of-d22/

11 ^ speedguru「AMT宗家中国ツアーキャンセルの御知らせ」大ぼら一代番外地 -河端一の漫言戯言世迷い言、2014年2月21日 https://ameblo.jp/speedguru/entry-11777984999.html ※河端一氏によるオフィシャルブログ

12 ^ speedguru「中国は遠くなりにけり」大ぼら一代番外地 -河端一の漫言戯言世迷い言、2015年3月1日 https://ameblo.jp/speedguru/entry-11995858575.html ※河端一氏によるオフィシャルブログ

13 ^ 山本佳奈子「検閲下で静かに開催されるライブ:Multiple Tap in 杭州レポート」Offshore、2015年4月12日 https://offshore-mcc.net/column/500/

14 ^ 山本佳奈子「公演キャンセル、そして開催されたシークレット公演:Multiple Tap上海」Offshore、2015年5月2日 https://offshore-mcc.net/column/513/

15 ^ Yan Jun 「Drugs, Violence, Porno, Mafia, Anti-government, Anti-religion and Acid Mothers Temple」WIRE、2015年5月 https://www.thewire.co.uk/about/contributors/yan-jun/yan-jun_drugs_violence_porno_mafia_anti-government_anti-religion-and-acid-mothers-temple

16 ^ 株式会社バッドニュース「Company History」最終閲覧日 2021年1月13日、http://www.badnews.co.jp/company.html

17 ^ Yan Jun 同上

18 ^ ここでは、営業の主目的をライブよりもバーやカフェ機能においている空間は除外している。

19 ^ 海盗大帝「关于迷笛音乐节,你必须知道的历史」摇滚客、2015月6月15日、 https://mp.weixin.qq.com/s/iGnMXCS2tGdmkb_eWvYBqw

20 ^ 范志辉「摩登天空20年 」音乐先声、2017年8月1日 https://www.sohu.com/a/161374129_808534

21 ^ 摩登天空「草莓音乐节第100回落幕 | 谢谢每一位参与者,明年再见」2020年12月29日、https://mp.weixin.qq.com/s/KI_3o6x_6rxjaDhNN9lRaw

22 ^ 肖旋「观察|迷笛草莓共计36万人次 音乐节赚翻了?」搜狐娱乐、2013年5月6日、 http://music.yule.sohu.com/20130506/n374904301.shtml


参考文献・ウェブサイト:
查楠『现场演出,独立卓然 36Kr-独立音乐研究报告』36氪研究院、2018年
愚公移山Website http://www.yugongyishan.com/guanyuwomen/
Miaoju Jian, “The legendary live venues and the changing music scenes in Taipei and Beijing: Underworld and D22” Routledge Handbook of East Asian Popular Culture, 2016
liveCNmusic「Flashback 追忆: 2Kolegas 15th Anniversary 两个好朋友酒吧15岁生日派对」2020年6月10日 https://mp.weixin.qq.com/s/zDtBiuxEwb67XiZC004GnQ
迷笛「2020迷笛音乐节主题公布!」2020年4月9日 https://mp.weixin.qq.com/s/qw62-4qhkaC8BLUC8xvyRw
中国摇滚DATA BASE http://yaogun.com/